トガシパンダ

花束みたいな恋をしたのトガシパンダのレビュー・感想・評価

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
4.1
2024/01/15
彼氏と同棲するので観た。1回目観てからも度々観てたけれど、良い映画。同棲を始めるシーンは観ていてワクワクする。わたしも今度の家は、ベランダからの景色で決めた。川はないけれど、日当たりの良いいい部屋だ。1回目、劇場で一緒に観た彼とは別の彼氏と同棲する。その元彼とは5年も一緒にいたのにするりと今のわたしからは抜け落ちてしまった。もはや過去のワンカットぐらいだ。忘れてもいないけれど、思い出すこともさほどない。別れ話のシーンに自らも身に覚えはあるけれど、なんとなくこんな別れ話はもうしないのだろうなと思う。彼と気が合わないとか、趣味が合わないなんてことなく25歳から始めた恋愛なんてそんなもん。そしてわたしのbeatsのイヤホンも未だ健在だ。

『はじまりは終わりのはじまり。出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ』『数%しかない恋愛の生存率を生き残る。この恋を一夜のパーティーにするつもりはない』こんな躍起になってしまっているから、恋に焦がれ死んでしまったのかなと思う。別れを内在していたとしても、その将来が見えない限り恋愛の賞味期限は切れないってだけ。


2021/02/08
beatsのイヤホンてそんな壊れにくいもんですか?これはbeatsのプロモーションを含んでるのでは?

冗談はさておき。
バター猫のパラドクスから始まるこの映画。後に登場する黒猫にはバロンと名付ける。「別れる男にひとつ花の名前を教えなさい」と説くのは元は川端康成。キノコ帝国のクロノスタシス。わたしの中の“サブカル”とも被っていたから面白かった。わたしはガスタンクではなく、店先のソフトクリームランプの写真を撮りためていたことがある。
否。サブカル、、というより自分の触れた好きなものを上手く醸成している2人のように見えた。興味のあるものに手を触れる時間と気力という特権は学生のものであるのは確か。重なる偶然を運命だと信じ切れるのも学生の特権だろうな。川の近くにアパート借りたいな。

ラーメンのレビューブログはもう何年も更新されていないだろう。互いの環境や立場が変わり、緩やかに枯れていく恋。ふたりでいるために就職したのに、それがきっかけですれ違っていく姿は辛かった。きっと言葉が足りなかった。言葉をかける時間もなかった。それぞれ互いを思っての生活なのに、互いを見つめているはずなのに、視線が交差しなくなっていく。5年という月日は、出会った頃のお揃いの靴を履くファミレスのふたりが変わってしまうには十分すぎた。ファミレスのあの席はもう空かない。

恋愛感情はなまもの。愛へと昇華できればいいが、大切なものがスッポリ抜けてしまえばそれはただの情。それに気づいた絹は揺れなかった。でも、最後の3ヶ月には確かにふたりの愛はあったよね?

この先、麦と絹は焼きそばパンをスーパーで見た時や、イヤホンのRとLを確認した時や、ゼルダの新作が出た時やファミレスのドリンクバーを薄く感じる度に相手のことを思い出すのだろう。毎年同じ場所で咲く花を見て、花の名前とかつての恋人を思い出すように。

花束みたいな恋だった。5年の中の出来事はひとつひとつが一輪の花で、それで繕った大きな花束。花もなまもの。枯らすのではなく、ミイラでもなくてドライフラワーにしてそっと胸の内に閉まって置く。

あ、賛否両論ありますが、わたしは恋人と観に行きました。良かったね、を皮切りにふたりのこと、今までのことを色々話しました。出会いは、教会。互いのTSUTAYAカードが某映画スタジオの期間限定デザインで運命だと思った。ふたり共まだ学生だったから、この出会いは神様の思し召だと信じた。あれから4年。すれ違い離れても、また手を取り合った過去がある。楽しいことも辛いこともあった。未来が不安になることもある。これからもきっとそう。わたし達にどんな未来と別れが待っていようとも、今ふたりでいることを選び続けている。それだけで十分ではないでしょうか。