ゆず

ミッドナイトスワンのゆずのネタバレレビュー・内容・結末

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

こどもの目は口よりも雄弁で、それは経験値の低さからの大人にかける言葉を持ち合わせてなく、だから目で訴るしかのだけれど。
大人達はその目に、自分の汚い、うしろめたいところを見透かされそうになる。


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この映画の好きなとこは登場人物皆生きづらそうで、LGBTの人達がこの狭い国で生きづらいのは確かなのだけど、それでもLGBTだけが辛いわけじゃない、人生皆等しく辛いんだなって思えるとこ。好きです。

田舎で暮らす普通の主婦もトランスジェンダーの子供を理解できず狂うように叫ぶし(あのお母さんの演技凄かったよねえトランスジェンダーというものがまだわからない世代なの絶妙よね)、
富裕層で所謂勝ち組の、「ぶっちゃけ金持ちなんだよね〜」なんて軽く言えてしまうりんでさえその心は満たされず、この辛い世界からあまりにも簡単に、文字通り飛んでしまう。

これまでの人生上がった感覚なんて微塵もなく、どうにか坂を転げ落ちないように現状維持が精一杯。洋子ママのいうとおり転がり始めたらどこまでも落ちてしまう。生きるのってなんでこんなに辛いんだろう。


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反対にミッドナイトスワンの惜しいな〜!ってとこは構成だったな。
押しが強くて引いて魅せるとこもう少し作ってほしかった。
主役に「ネグレストされていた少女」と「トランスジェンダーの女性」という2人を置いたことによる物語の圧迫感。

個人的には「ネグレストされていた少女のイニシエーションの物語」にするか「トランスジェンダーの人生」にするかにもう少し重点を置いた方が好み。
どっちも大事にしすぎたことで次々と両サイドからの衝撃が畳み掛けてきて、でもそれの補完をしないので、置いていかれた人は多かったと思う。


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最後の冬、母になりたかったと思ったのは果たして誰か。
と考えた時に、一果の母になりたいと願った凪沙ではなく、「(彼女と一緒にいられる)最後の冬、(彼女のための)母になりたかったと思った」のは一果なのではないか、なんてことを考えた。
手術のアフターケアをサボって壊死した下半身に視力もなくなり、以前よりも狭いアパートで、孤独のなか生死を彷徨う凪沙に寄り添う。今度は彼女のレシピの料理を作り、同じものを食べる。
オカマだとか、病気だとか、バケモノだとか。
そう言われ続けてきた彼女を包み込む愛、慈愛。
(凪沙だけでなく早織にもりんにも赦しを与えられる一果は聖母のようだ)


白鳥の湖が根底にあるのなら、白鳥と黒鳥を同じプリマが一人二役することを考えれば凪沙と一果は二人で一つなのかもしれないとは観る前に想像していたものなのだけれど、白鳥であり黒鳥であるという「表裏一体」な描写は「りんと一果」や「早織と凪沙」の対比であって、凪沙と一果はひとつになったんだなと理解した。


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樹咲ちゃん演じる一果。中学生はじめくらいから映画の中でどんどん成長して、卒業式を迎える頃にはボサボサだった髪の毛が綺麗になって、さらに、「彼女」を意識した赤い靴ときっと彼女のものだろうコートを羽織って美しくなっていく。
こどもの時には自分にはどうしようもない事が多いけれど、でも世界はもっと広いことを知って、自由に飛んでいける。

世界は広いだなんて言うけれど、どう広げていけばいいのか。その広げ方が映画には散らばっていた。
辛い、苦しい、悲しい、どうして私ばかり。
そういう時は皆自分だけで手一杯だった。
誰かの力になりたい、誰かのために生きたい。そう思えた時に、他人を愛そうとする自分を許し、少しだけ一歩踏み出す勇気がでる。
誰かが、一人から、二人へ、次は三人へ。家の中から、学校へ、街へ、他の街へ、他の国へ。
そうやって、すこしずつ、少しずつ人と社会と交わって世界が広がる。
今生きづらいな、と思っている学生さん達に、この辛く、切なく、けれどやさしい作品が届くといいなと思った。


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「面接に行った会社さ、あれ凪沙きっと自分で辞退したんだろうね」と一緒に観に行った妹が言った。
それはいい考察だなって思った。
映画の主題でもあるLGBTのこと。
個としてのアイデンティティは一体どこにあるのか。
安定してそうな職場でLGBTのレッテルを貼られて生きる事が、必ずしも凪沙を救うとは限らない。
普段は東京に溶け込むようにトレンチコート姿の凪沙が帰省のときだけ真っ赤なコート。田舎の風景には溶け込めないほどの個の主張。

自認と他認が一致しないと人は救われないし、救えない。

髪の毛を伸ばせば女なのか、髪を切れば男なのか。
彼女達を縛る名前という呪い。名前を変えれば女なのか、男なのか。
一果を引き取るための理由になるくらい、手術は凪沙の生きる希望でもあった。
胸があれば女なのか、男性器を切除すればそれは男では無いということなのか。
水をかぶると女になり、お湯をかぶると男になるらんまのコミックスまで問いかけてくる。細かい。好き。



アイデンティティ。
見えるもの、見えないものだけでない、見えないけれどでもそこに存在するもの。
客席にりんがいたと一果がいうならそれは「いた」のだろうし、
同じものを食べて服を一緒に洗って、それを二人が親子と呼ぶならそれは「親子」でいいのだろうし、
もう目の見えていない凪沙が浜辺で踊る美しく成長した一果を見たのならそれは「見た」でいいのだ。
ゆず

ゆず