n0701

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のn0701のネタバレレビュー・内容・結末

4.2

このレビューはネタバレを含みます

つまるところ、思想は運動なのだ。
やれ暴力だと偉そうに言ってはいるが、右翼活動も左翼活動も、突き詰めると財布という現実にぶち当たる。どちらも日銭を稼ぐため遊んでばかりはいられない。パトロンを見つけるか、大衆に迎合するか、とにかく貧しくとも人に頭を下げてお金を頂戴するしかない。

ここに、活動家の限界がある。
右からも左からも情報が溢れ、西も東も経済活動と世界情勢という外的要因による不確定要素が溢れている中で、この映像に登場するような「安っぽい」ユートピアや「天皇至上主義」は、実社会や現実社会という大きな歯車の中で回るほんの小さな機能しか有していない。

故にお互いに現実世界に敗北するという僕からすると惨めな最後を迎えることになる。三島は革命の失敗を自らの死を持って精算し、全共闘の連中は自然消滅的に実社会の中に蔓延る形で消えていった。

三島は全共闘の熱情のみを支援し、全共闘は三島の理論を頭で理解できても、行動として共に歩むことはないという結論を出す。互いに互いを全否定しているにもかかわらず、共闘の可能性を示唆しているところに右翼と左翼の本質がある。

つまり、お互いに敵対してはいるが、敵は別に存在しているのである。右翼は米国の支配からの脱却と強い日本の復活を目指し、左翼はそもそも国という概念から脱して完全なる自由、すなわち革命を目指しており、互いに現行の日本の姿勢に対する鬱屈した不満を活動の根幹にしていたのだ。

この映画の面白さは、あまりテレビでは語られることのない全共闘など左翼活動家の「その後」に迫ったことにあると思う。活動は日常と地続きにしか存在し得ないのだ。その日常という存在は概念ではなく現実に存在し、日常を日常たらしめるのは、体制側が作ったシステムなのである。

現在、活動家はこのシステムを否定してはいない。弱者救済という新たな共闘する余地を見つけて蔓延っている。否定はしないし、ごもっともな部分もある。だが、それは共感性が余りにも低い。この時代、この時に共感して活動した若者は、このポイントでさえ1000人もいた。若者の1000人だ。暇な老人ではない。

活動家は「左翼」などと一括りには出来ない。思想はもっと自由だからだ。故にマジョリティに勝てないのだ。
n0701

n0701