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ラモーの甥
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『ラモーの甥』に投稿された感想・評価

河

河の感想・評価

5.0
MUBIから消えるって知って、これ逃したら一生見る機会ないと思って見た そうじゃないと見なかった気がする

基本的には映像との組み合わせとしての音の実験集なんだろうと思う 会話からスピーチ、おしっこの音まで、体から発される音が全部入ってるし、それの使い方も全て入ってるような感じがする 4時間15分ぶっ続けで見てしまったけど、作品集として見てもいいかもしれない

作品ごとに本当に何が起こるかが全くわからないので、映像の切り替わる間の色の点滅と、映像が始まってなんとなくどういうのか把握できるまではかなりの緊張感とワクワク感がある 色の点滅、作品によってはちょっと長かったりして、次の作品に向けてここでリズムが整えられている感がある

あと、全作品始まり方が強いけど、それよりもオチというか、意表を突いた終わり方だったり投げ出したように終わったり、終わり方が全部かっこよかった 始まりと終わりの一瞬に創作的な緊張感が一気にひきつるの、この監督とジョンカーペンターくらいのもん

タイトルが出るところで、タイトルが、カナダなんとかの協賛による(10分くらいずっと読み上げられる出演者名)出演のボッカチオ作のデカメロンを元にした〜っていうひたすら長くしただけのタイトルってことがわかる このやたら長いスタッフロールと完全に無駄な出演者名の、しかもたどたどしい読み上げの時点で心の準備をした 音によってタイトル、スタッフロールをリズミカルかつひたすら冗長に変えているって点でこの映画の導入って感じがする

最初の長い映像である飛行機での会話の、時系列的にも内容的にも循環する、戻ってからの枝分かれからの元の枝に戻る、吃り、スキップ、音量が絞られるとかで会話のルールが崩れていく、なのに成り立っていて飛躍しながら会話が進んでいく、映像が会話と作用し合う、それらの仕掛けをその会話内でメタ的に言及する、会話に入れてない人としての観客への視線と介入みたいな、明らかに自分の全く知らない独自の法則によって成り立ってる空間感に度肝抜かれた 4時間の中でも、このスペーシーで未知なのになぜかキャッチーな感じが一番好きだったかも知れない

洗面台と蛇口からの水を活かした演奏、多言語がミックスされた状態の文章のかオリジナルの言語の読み上げからの、飛行機のシーンと同じようなことがレコードと台本をギミックとして使いつつ行われると思ったらそのまま同じ音が繰り返されるようになり動きがなくなり、だらける人々と映写機の光をひたすら眺めることになる 不規則かつポリフォニックになる音の異様な気持ちよさ含めて、ここは自分も映画と一緒にだらけるべきシーンなのかもしれない

キューっぽいものの方向とカメラから観客が被写体とされてることがわかる中の会話シーンだと思ったらまさかのそのまま同じシーンの逆再生始まる、その次のチューニングが定期的にずれる飛行機の会話と違って、決定的にチューニングの外れる最初の半分の最後にあるシーン、最初の何してるのかそもそもわからないインディアン?の静止画から人が現れるまで、広東語のセリフからどんどん狂っていくまでが異様すぎてトラウマ そっからの次の2時間の最初がおしっこバケツ音っていうのも最高

ブルジョワみたいな人たちが声をモルモットにしたような実験をひたすら行なっていく、ボブディランがきまずさに変換される 机の上のものを規則的に動かしていく、それが高速でナレーションされる、規則的に動かしていくけど不可逆な動きが含まれるから絵面としてはどんどんカオスになっていくけど、だんだんと法則が見えてきて最終的に何かが組み立てられる、と思ったら気づいた時にはナレーションは同じことを繰り返していて動きと全く連動しなくなっている

高笑いの音と全く一致しない退屈そうな映像、雨の静止画の連なりと雨の音だけど雨と音は一致しない、ラジオの会話と三色の映像の連続 って感じでワンアイディアかつ瞑想的な短編が続いた後、宇宙的なバイオリンの音と光、映像が逃げていく!からの映像が歪んで暗転したりして、次に何が起こるか全くわからないままだんだんとゆったりとした魔術的で瞑想的な世界にもつれこんで、最後節操のない音楽の使い方でぶち上がる最後の長い作品、最後だけあってこの映画の集大成感あったし飛行機のと並んで非常に最高だった まさか結合部分そのまま見せられるとは思わなかったけど

最後、最初と円環するように短い映像で締められていくのもかっこよかったし、クレジットまた読み上げられ始めた時は一瞬ゾッとした そっからの汚い音連発からの何か言ってるようで全く何も言ってない長セリフからの何?って感じの馬鹿にした映像でパンって終わるの最高すぎた

最初に示された箱の中身は空で、最後の畳み掛けでこの映画に考察させるような中身はないよって言われたような感じ 難解さの可能性を否定して考えに耽らさせずに、普通に楽しい時間を過ごしたとして最後に解放してくれるの優しい

途中本当に暇すぎて狂いそうな時間はあったけど、見たことないしこの映画以外で見れることないだろう最高の瞬間がいくつもあったから、見て良かったなと思う
輸入した超巨大アメリカ製DVD箱に収録された2枚組のソフトを漸く鑑賞。丹下健三が設計したモダン建築の屋根を岡本太郎の土偶塔がぶち破る形で成し遂げたポストモダンの到来と同時期に映画の領域ではマイケル・スノウがCG合成した存在しないテーブルの上に食器を置いて(捨てて)、その破裂音を画面に記録するという、簡潔にして過激なポストモダンと言って然るべき映画的表象に至った70年代映画史に刻まれるべき『ラモーの甥』を作り上げ、その後『中央地帯』へ至る流れは現代映画を考える上で欠かせない視点だと思うが、現代思想的な文脈かNYアンダーグラウンドの括りでしか殆ど語られてないスノウのフィルモグラフィーを、ゴダールやストローブ=ユイレといった作家たちとの文脈とパラレルに位置付けられないものか。
しかしなによりも『ラモーの甥』が画期的であるのは、映像表現の新しさや、4時間を超える長尺の中で短編及び中編の脈絡のない映像が纏められているというオムニバス的な構成や、それぞれの映像でなされる実験的な色付けであったり、音の生成の過程の記録の仕方など様々であるが、どの作品も漏れなく神聖な画面設計が、挑発的な笑いによって崩れが生じるように巧妙に仕組まれていることだと思う。一つ一つの作品は作り手の手作業が可視化されることによって、光源や空間の色、人物の配置、マイクの距離が変容する様を提示し、そうした人為的な作為が現れる時大抵画面は次から次へと切り替わりつつ、思考が捻じ曲げられていくのだが、そうした映画的演出行為は、ゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』を先取りする形で、映画制作が収容所的な強制力を与えることをユーモラスに時に露骨なポルノとして提示する。
ホロコーストのような露骨な政治的モチーフは存在しないものの、出演者たちの声は機械(楽器)を通してミュートされたり、別の出演者にすり替わっていたり、逆再生されるところに、戦時下の市民の声に対する支配の気配を見出せてしまう気がするのはこじつけが過ぎるだろうか。
20世紀ではアルトーが身体の叫びを発見したり、それとは別にベケットのような途切れたテクストのようなものがあるという事実はあるが、映画ではいくら機械的に出演者たちの声を操作しようと試みたとて、彼らが持つ声のテクスチャを変えることは不可能であることをスノウの映画を見たものは知っている。そして今、4時間を超える今作を見終えて振り返ると、冒頭でマイクを手に口笛を吹くことで、軽やかに自らの身体の音色を刻み込んだマイケル・スノウ自身の姿を思い出さずにはいられない。素晴らしき道化の姿に何度も何度も声を出して笑った。こんなに笑わせてくれた映画は、モンテイロ以来だ。
出来不出来でなく自分にとっての価値が高い。良し悪しで判断できない地点に映画を導いている点が興味深い。この先に何かありそうだと思わせる。観ていて楽しいわけではない。
ゴダールとやってること近いですね。