ルサチマ

ラモーの甥のルサチマのレビュー・感想・評価

ラモーの甥(1970年製作の映画)
5.0
輸入した超巨大アメリカ製DVD箱に収録された2枚組のソフトを漸く鑑賞。丹下健三が設計したモダン建築の屋根を岡本太郎の土偶塔がぶち破る形で成し遂げたポストモダンの到来と同時期に映画の領域ではマイケル・スノウがCG合成した存在しないテーブルの上に食器を置いて(捨てて)、その破裂音を画面に記録するという、簡潔にして過激なポストモダンと言って然るべき映画的表象に至った70年代映画史に刻まれるべき『ラモーの甥』を作り上げ、その後『中央地帯』へ至る流れは現代映画を考える上で欠かせない視点だと思うが、現代思想的な文脈かNYアンダーグラウンドの括りでしか殆ど語られてないスノウのフィルモグラフィーを、ゴダールやストローブ=ユイレといった作家たちとの文脈とパラレルに位置付けられないものか。
しかしなによりも『ラモーの甥』が画期的であるのは、映像表現の新しさや、4時間を超える長尺の中で短編及び中編の脈絡のない映像が纏められているというオムニバス的な構成や、それぞれの映像でなされる実験的な色付けであったり、音の生成の過程の記録の仕方など様々であるが、どの作品も漏れなく神聖な画面設計が、挑発的な笑いによって崩れが生じるように巧妙に仕組まれていることだと思う。一つ一つの作品は作り手の手作業が可視化されることによって、光源や空間の色、人物の配置、マイクの距離が変容する様を提示し、そうした人為的な作為が現れる時大抵画面は次から次へと切り替わりつつ、思考が捻じ曲げられていくのだが、そうした映画的演出行為は、ゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』を先取りする形で、映画制作が収容所的な強制力を与えることをユーモラスに時に露骨なポルノとして提示する。
ホロコーストのような露骨な政治的モチーフは存在しないものの、出演者たちの声は機械(楽器)を通してミュートされたり、別の出演者にすり替わっていたり、逆再生されるところに、戦時下の市民の声に対する支配の気配を見出せてしまう気がするのはこじつけが過ぎるだろうか。
20世紀ではアルトーが身体の叫びを発見したり、それとは別にベケットのような途切れたテクストのようなものがあるという事実はあるが、映画ではいくら機械的に出演者たちの声を操作しようと試みたとて、彼らが持つ声のテクスチャを変えることは不可能であることをスノウの映画を見たものは知っている。そして今、4時間を超える今作を見終えて振り返ると、冒頭でマイクを手に口笛を吹くことで、軽やかに自らの身体の音色を刻み込んだマイケル・スノウ自身の姿を思い出さずにはいられない。素晴らしき道化の姿に何度も何度も声を出して笑った。こんなに笑わせてくれた映画は、モンテイロ以来だ。
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