ナガエ

モーリタニアン 黒塗りの記録のナガエのレビュー・感想・評価

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いやぁ……さすがに、ちょっととんでもないものを観た、と思う。

「アメリカという国」の見方が変わる。

もちろん、「こういうことが起こっているだろう」というイメージはあるけど、でも同時に、「それでも『正義の国』だろ」という感覚もある。

スラヒも語っていたが、そういう「正義の国」という漠然とした信頼みたいなものが粉砕された気持ちになる。

以下、この映画が描く「ある事実」に触れて感想を書く。その「事実」を明かすことは、「映画を観る」という観点で言えば「ネタバレ」だろう。しかしこの映画で重要なことは、「事実そのもの」よりも「その事実の酷さ」だ。「事実の酷さ」についてはあまり書かないことにするので、是非映画を観て確かめてほしい。



アメリカ合衆国は、「9.11の首謀者」として拘禁している人物を、ラムズフェルドの指示で「特殊尋問」していた。

要するに、「拷問」だ。



映画の最後に、こう表記される。

【CIA、国防総省、いかなる機関も拷問の事実を認めず、謝罪もしていない】

映画の冒頭には、こう表記される。

【これは真実の物語である(This is a true story.)】

敢えて英語表記まで載せたのには理由がある。普段、実話を元にした映画の冒頭では、こう表示されることが多いからだ。

【事実に基づく物語(a story based on a fact)】

あくまでも想像でしかないが、恐らくこの「モーリタニアン」は、本当に「事実」だけを元にしている、つまり、映画的な脚色を一切していない、という意味ではないかと思う。

それは、「国家権力の横暴を暴く」という映画の姿勢そのものを考えれば当然と言える。僅かでも事実に基づかない脚色があれば、そこを衝いて反撃を食らう可能性があるからだ。

しかしそれ以上に、「この物語には事実しかない」という、その強度を示したかったのではないかと思う。

「事実に基づく物語」という表記の場合、映画で描かれるどの場面が真実でどれが脚色なのかを観客が判断する術はない。それは、「映画を楽しんでもらう」という意図で制作された映画であれば何の問題もないが、「事実を伝える」という意図である場合は不都合が生じる。

つまりこの映画は、ドキュメンタリーではないものの、「事実を伝える」という圧倒的な使命感を持って作られたのではないか、と僕は感じた。

公式HPによれば、この映画の制作を熱望したのは、この映画にも登場する俳優のベネディクト・カンバーバッチだそうだ。彼自身の制作会社で当初はプロデューサーに専念するつもりだったが、出来上がった脚本が素晴らしかったこともあり出演も望んだそうだ。

さらに公式HPによれば、監督を務めたケヴィン・マクドナルドは、ドキュメンタリーに定評がある人物だそうだ。このような外的な情報からも、この映画の制作陣の覚悟を感じることができる。

映画の構造はシンプルだ。

スラヒという、「9.11の首謀者の1人」として疑われ、起訴されないまま数年間も、キューバにあるグアンタナモ米軍基地内に拘禁されている人物がいる。

その人物に関する情報を、人権派弁護士であるナンシーが知る。彼女はグアンタナモ基地まで出向き、スラヒの弁護を担当する。彼女は、「スラヒが9.11のリクルーターだったか否か」を当面問題にしない。仮に首謀者の1人だとしても弁護を受ける権利はあるし、そもそも「起訴もされないのに拘禁されている状態」は「不当な拘禁」であり、「人身保護請求」を申請して地獄のようなグアンタナモ基地から救い出そう、と考えている。

一方、米軍のスチュアート中佐は、スラヒを起訴しろと命じられる。あの9.11のテロでハイジャックされた175便に搭乗していた機長と親友で、「スラヒを死刑第1号にせよ」という命令に奮起する。しかし起訴のための準備を進めるも、グアンタナモ基地での報告書が矛盾だらけで、しかも日付が削除されていることを知る。報告書には、その元となる「MRF(記録用覚書)」が存在している事実を掴むも、スチュワートには「MRF」にアクセスする権限がないと突っぱねられる。何かおかしい……。

スラヒを救おうとするナンシーと、スラヒを死刑にしようとするスチュワートの奮闘が、結果的には「アメリカの闇」を引きずり出す結果となった。


本当に、この映画で描かれている事実を何1つ知らなかったことに驚かされた。

スラヒがナンシー宛に送っていた手記は、裁判が始まる前に出版され、世界中で翻訳されてベストセラーになったそうだ。検閲が入り、一部黒塗りのままという異常な本だ。僕はずっと書店で働いていたけど、そんな本が出版されていることを知らなかった。おかしいと思って調べてみると、日本ではこの映画の公開に合わせる形でようやく出版されたようだ。アメリカでの出版が2015年だったのだから、もう少し早く翻訳されても良かったはずだ。

グアンタナモ基地内の収容所に、アルカイダやテロリストを収容し、司法手続きなしに厳しい尋問や拷問が行われ、長期的に拘禁されているという事実が明らかとなり、国際社会や人権団体が抗議し、2009年にオバマ政権が閉鎖を表明したが、現在も閉鎖に至っていない、とHPに書いてある。そんなことも知らなかった。

中国のウイグル自治区で人々が拘束されている、という話は、度々ニュースで見かける。その度に、中国って国は本当にヤバい、と感じる。しかしこのグアンタナモ収容所の件も、中国のウイグル自治区の話と同じだろう。しかも、同じように国際世論の批判を受けているのに、僕は日本でこのグアンタナモ収容所に関するニュースなりに触れた記憶がない。僕がたまたま知らないだけという可能性もあるけど、そうではないんじゃないか。

つまり、日本のマスコミはやはり、アメリカに忖度し、アメリカに都合の悪い情報を報じていないのではないか。

という気にもなった。もちろんどうかは分からない。結局マスコミは、国民が関心を持たないニュースは流さないのだから、「アメリカのグアンタナモ収容所に関するニュースなど報じても視聴率に繋がらない」と判断しているだけかもしれない。それは分からないが、しかし疑ってしまう。

ドキュメンタリー映画や実話を元にした映画を観る度に感じることだが、この映画は改めて、「自分たちは本当に世界を知っているのか?偏った情報にしか触れていないのではないか?」と突きつけられたように思う。

この映画では、米軍側の描像はシンプルだと感じる。スチュワートを除く、スラヒに関わる多くの者たちは、「次の9.11を起こさないためならどんなことをしても許される」という判断基準で行動しているように思う。それは最低最悪な行動基準だが、シンプルかどうかと言えばシンプルだ。

そして、そんな状況にあるとは知らずに白羽の矢が立ったスチュワートは、法に基づいて正しくスラヒを起訴すべきと考える。スチュワートを選んだ人物の思惑は、「彼は親友をテロリストに殺されているのだから、何が何でもスラヒを起訴するだろう」というものだっただろうが、スチュワートは自らの良心に従い、正しい手続きに則って起訴の準備を進める。

【不十分な証拠がいくらあったって、確実な証拠が1つでもなければ無罪放免だ】

そしてそんなスチュワートは、「裏切り者」と呼ばれるようになってしまう。

非常に印象的な場面があった。スチュワートはある人物と議論している。相手は、9.11のテロについて、

【誰かがその報いを受けなくては】

とスチュワートに詰め寄る。それに対してスチュワートは、

【だが、誰でも良いわけではない】

と返す。

このやり取りからも、アメリカという国家は、「とりあえず誰でもいいから『9.11の首謀者を処刑した』ということにしたい」のだろうということが分かるし、一方スチュワートは、「正しく責任を有するものを正しい手続きで裁くべきだ」と考えていると分かる。

スチュワートは自らの良心に従い、米軍を去るのだが、その後彼はある場面で、

【裁判で有罪だと確定したら、自分が死刑を執行したい】

と語っていた。彼の中には当然、親友を殺した者への憎しみがあるし、そこにスラヒが関与していると確定するのであれば殺したいほどの感情を持っている。

しかしその前に、スラヒに罪があるのかどうか正しく判断されなければならない。

スチュワートの理屈は当たり前のように当たり前だが、特に9.11後の米軍では許容されなかったようだ。スチュワートのように、正しく「正義」を実現できる者こそ、国を導いてほしいものだと思う。

さて、一方のナンシーの側は、決してシンプルではない。ナンシーの行動原理が理解できなかったスラヒも、「なんで俺なんかのことを弁護するんだ?」と問いただす。それに対してナンシーは、

【誰にでも弁護を受ける権利がある】

という言い方をする。

ナンシーには、当初は通訳として同行させていたテリーという法律事務所の後輩がいる。拘禁中にスラヒが英語を習得したことで、通訳としてのテリーの役割は不要になったわけだが、しかしその後も彼女はグアンタナモ収容所まで出向き、スラヒの案件に関わり続ける。

そんなテリーがナンシーに、

【どうして「あなたの無実を信じる」と言ってあげないの?】

と言う場面がある。これもまた印象的だった。ナンシーは、この問いに直接答えはしない。

スラヒとの最初の面会で、彼は母親の電話番号を伝えた。テリーがそこに電話し、その内容をナンシーに伝えた際に、ナンシーは「どうして彼は母親の電話番号を伝えたと思う?」とテリーに聞く。テリーは「無実だと母親に伝えたかったから?」と返すが、ナンシーはさらに、「無実だと訴える母親の声を聞かせるためよ」と言う。

【私たちは、拘禁の不当性を証明するだけ。同情は不要】

と彼女は言い切る。

一方、ナンシーがある新聞社から取材を受けた場面。記者は、「あなたは『テロ支持者』と言われていますが?」と聞く。テロリストの弁護をするなんて、という世間の声にどう答えますか? という質問だ。

それにナンシーは、

【レイプ犯の弁護士はレイプ魔とは言われないし、殺人犯の弁護士は殺人犯だとは言われない。それなのにどうして、テロリストの弁護士は『テロ支持者』と言われるんでしょうね?】

と不敵に笑う。

また、具体的にどんな場面での発言かは書かないが、ナンシーはテリーに対して、

『疑念を抱いたまま弁護しても勝てない。出ていきなさい』

と、担当から外れるように強く言うこともある。

これらのナンシーの発言は、なかなか捉えにくい。しかしこれは、スチュワートと基本的に同じスタンスであることを示しているだろうと思う。

つまり、「法こそがすべて」というわけだ。弁護士にできることは、法律という土俵の上で闘うことだけだ。依頼人が有罪なのか無罪なのかは、依頼を受ける時点では分からないし、自分の信条も関係ない。あくまでも、法律が存在する範囲において、法律が約束する権利を行使する手助けをするのが自分の役割なのだ、という使命感を強く持っていると感じる。

だからこそ、ナンシーが、

【あなたを尊重している】

【一人にしたくなくて】

と語る場面はぐっと来る。彼女が初めて、「法」という領域の外側に出た場面だからだ。

そしてだからこそ、スラヒも彼女にすべてを託したのだろう。そしてナンシーの奮闘により実現した裁判の冒頭で語るスラヒの言葉には感動させられる。見事としか言いようがない。

そのスラヒの言葉を具体的に書くことはしないが、印象的だったのは、

【アラビア語では、”自由”と”許し”は同じ言葉だ】

という発言だ。ナンシーやスチュワートのようになるのもなかなか困難だが、何よりも、スラヒのような経験をした上で、あの場面でああいう発言ができる人間になるのもこんなんだと思う。

【この場を導くのは法だと信じている。だからどんなものであれ、あなたの判決を受け入れます。】

映画を観ていてずっと感じていたことは、アメリカ人が「拷問」などの事実を知った時にどう反応したのか、ということだ。別に何か行動を起こせとかそういうことではない。

アメリカ人は、どう感じたのだろう?

映画には、テロリストを弁護するナンシーとテリーに向かって、「9.11を忘れるな(Remember 9.11)」と叫びながら批判するような振る舞いをする人物が出てくる。この時点ではまだ、アメリカ合衆国による「拷問」の事実は明らかになっていなかったから、彼らの行動も分からなくはない。

しかし、「拷問」の事実が明らかになってからはどうだったのだろう?恐らくこの映画では、「事実のみを描く」というスタンスに沿うためにそういう描写は入れなかったのだと思う。アメリカ人が、アメリカという国に対して失望感を抱いたのか、それとも「9.11の再発を防ぐためなら仕方ない」と感じたのか。もちろん、どちらの人もいただろうが、世論として多勢を占めたのはどちらなんだろう、と思った。

日本でも、森友問題に絡んで、近畿財務局の赤木俊夫さんが自殺した。全体の構図も違うし、「直接的な暴力」の有無も違うが、「国家権力による横暴」という意味では同じだ。

「国家権力による横暴」を国民が放置すれば、グアンタナモ収容所のようなものが日本にも出来るかもしれない。

僕は、未来の自分を後悔させたくない。だから今、「国家権力による横暴」を監視しなければならないと思う。
ナガエ

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