このレビューはネタバレを含みます
久しぶりに映画館
原作未読だったけれど、映画を観て必ず読んでみたいと思った。
あみ子、どんな女の子なのかなぁ〜って、
作品の中では、はっきりした病名はなくて、風変わりとされている。
確かに多くの人と比べると少数派である事は間違いないがあみ子は風変わりなのだろうか?
彼女を見ていると・・・
そう、彼女一人を見ているとキチンとしたルールや考えがあっての結果的行動なんだとわかるのだ。
ただ、他とは違うだけ。
それを受け入れてもらうのがとてつもなく難しい世の中なんだと気づかされる。
上靴を履いてないのは、隠されて無くなったから。
好きな子に、ただ好きと言いたかっただけ。
チョコが好きだからビスケットのチョコだけを舐める。
すべてあみ子の中では納得の行動なのだ。
相手の立場で物事を考えることが苦手。
いつも一方通行。
大好きなトランシーバー、
「こちら、あみ子、応答せよ」
あみ子には誰も答えてくれないの。
あみ子はどうしていじめられるのか?
どうして?
私の何がいけないの?
それが理解できないあみ子のどアップ!
演じる大沢一菜は優れもの、
ほんとにすごい女優だと感じた瞬間だった。
井浦新や、尾野真知子の演技が薄れていたと思うくらい、あみ子が強烈だった。
作品の中盤からはずっとずっと胸が締め付けられ切なくて辛いシーンの連続なのだが家族や周りの人達の対応はどうなのか?
あみ子は素直に赤ちゃんを楽しみにしていたし、優しい気持ちを持ち合わせている事も事実、
前歯を折られ鼻を骨折するくらい殴られても、"のり君"の事は話さなかったくらい大切な友達だったんだ😭😭😭
ただ、人と合わせることが苦手、
あみ子は一人が好き?いや、違う、
周りがひとりにさせてしまうんだ。
田舎のおばあちゃんと、お父さんとのトランプ楽しそうだったなぁ〜
こんな時間が続くけば良いなぁ〜
なのにお父さん、あみ子を置いてくの?
悲し過ぎるよ、涙が溢れて止まらなかった。
苦しい苦しい胸が締め付けられる・・・
寄り添い、受け止め、大切に、
抱きしめしてあげることはできないのか?
この作品では、唯一、書道教室の丸坊主男子だけは、彼なりの正しい眼でずっとあみ子を観察しており、
彼女を知ること、彼女を受け入れることを間違いなく行動に移したいい奴なんだ😭
(けれどあみ子はのり君しか見えていないのだ…辛い)
あみ子、あみ子、あみ子、
答えのない問題に直面した時、私なら何ができるのか?
と、自問自答しながら
ラスト、
裸足でスキップするあみ子、
海辺にたたずむあみ子を力いっぱい抱きしめてあげたい、それが私の答えだった😭
追記
あみ子に出会ってから、もう10日以上も経つのに、気がつくとあみ子を思い出す自分がいる。
鑑賞中ずっと"あみ子の産みの母"は?を考えながら観ていた。
その後、パンフを買っていた娘が青葉市子さんのエンディング曲「もしもし」の歌詞について語り始めた瞬間、胸がいっぱいになり嗚咽してしまった。
産みの母は他界しており、誰も応えない、あみ子のトランシーバーに、
優しい声で、「もしもし」と応えている曲なのだそうだ。
私はこの数日間、劇場で中盤から涙が止まらなかった意味を探そうとしていた気がする。
あみ子の中にかつての自分を見出し、大人になってしまった自分に気がついて、どこか複雑な感情に苛まれ、直後に投稿したレビューは大人になった私の建前上のレビューだと気がついた。
幼い頃、両親は私が「男の子だったら良かったのに」と何度も言った。
その度に私は女だったから悪いのか?幼心にそう思っていた矢先、弟が誕生したのだ。
溺愛した母親の目から私の姿は少しずつ消えて行った。
夏休みの思い出は何度辿っても、親戚の家に預けられた時の記憶しか思い出せない。
15歳からの寮生活、その後は一人暮らし、
そう思えば私は15年しか両親と暮らしていなかったんだなぁ〜
もう何十年も昔のことなのに、
心の傷なんて私には存在しない…くらいに思っていたのに、、、
幼い頃の小さな傷が完全には癒さらていないことに『こちらあみ子』を観て思い起こされ、その事に対して心を浄化するための涙だった様に今は思う。
こちらあみ子、応答せよ、
「もしもし」
って優しい声でこたえてほしい、
人は皆、いくつになってもそんな言葉を待ち望んでいるのではないでしょうか?
あみ子が道路や野原、階段グリコ遊びをしているシーン、一人なのになぜか寂しそうに見えなかったのは、ほんとのお母さんが見守ってくれていた視線が映像から感じたからなのですね。
何故『こちらあみ子』にこんなにも惹かれているのか?
もしかすると、もっと他にもあるのかも知れません・・・