まっつん

最後の決闘裁判のまっつんのレビュー・感想・評価

最後の決闘裁判(2021年製作の映画)
4.7
リドリー・スコット、83歳。未だ最先端。またもや優勝。ということで今回も格の違いを見せつけてくれました。今年ベスト級の一作っ!!!

本作については方々で言われている通り、黒澤明の「羅生門」形式を取り入れております。一つの事象について3者の視点から描く構造であると。しかし、本作は厳密には「羅生門」とは全く別のベクトルの作品になっていると思います。むしろ「羅生門」とは真逆の作品。と言うのも、3者の視点をもってして「人それぞれの真実ある」というようなポストトゥルース的な相対化をしていないからです。「起こった事実」というものは厳然と存在していて、その上で男たちによる権力勾配に基づいた認知の歪みをこそ描いている。「起こったこと自体が違う」ということでは無くて、起こったことに対する意識の違いというのを、きめ細やかでありながら明確な差異として描くリドスコの演出力の高さには改めて感服いたしました。それ故、本作はほとんど解釈の余地がないような作りになっています。マルグリッドの証言こそが絶対的な真実である。とこれほどハッキリと言っているにも関わらず「誰の言ってることが本当だか分からない」みたいな感想を書いている人を見ると暗澹たる気持ちになります。男側の視点は一分の理も無い妄想なわけですよ。「何を観てたんだ」とすら言いたくなりますよ。特に最近のリドスコ作品って全部そうなんですけど、「ものわかりの悪いバカ向け」には作ってないわけです。それでも本作はリドスコの映画としては珍しいぐらい懇切丁寧に説明をしてくれているにも関わらず「分からない」っていうのはね….もう映画とか観んなよ!と。

本作はリドスコが何度も描いていた「決闘映画」に対する批評的な面も入っています。リドスコの映画は「理不尽かつ不可逆的なシステムに巻き込まれた人間が如何にしてそこに挑むか」みたいな話が多いんですよね。「決闘」というこの上なく理不尽で、かつ馬鹿馬鹿しいシステムに挑むということに一種のロマンチシズムを託している。しかし、本作ではそのロマンチシズムは何に下支えされていたものだったのか?その裏で見向きもされなかった苦しみとは何なのか?ということを描いてみせる。もちろんそれはマルグリッドに代表される「所有物としての」女性ですよね。本作のマルグリッドの境遇は一から十まで絶望的なものばかりで、観てるとあまりの辛さに痩せてしまいそうになるほど辛い。所有物としか見なされず、子供を産むこと=跡取りを作ることという家父長的なサイクルに奉仕するための存在としての女性。それはもう領主たちが奪い合っている土地や家畜と本質的に何ら変わりがないわけですよ。しかし、そういった14世紀の話が現代でもアクチュアリティを持ち得るということに愕然とさせられるわけです。例えば、「〇〇さんとこの奥さん」みたいな物言いって普通に罷り通ってますよね。それって女性を所有する感覚をものすごく端的に表してるように思うのだが…っていうところであったり、ほんの十数年前には「女性は産む機械だ」なんてことを公に言ってのける国会議員だっていたわけですよ。そういう現状がある故に、リドスコの映画としてはかなり「噛んで含める」ような(特に男性側に)内容になっていることは致し方ないかなと思いますし、「今更だけども大切なことだから何度も言っておく」のも表現の価値だと思います。

そして最終的には「神はいない!」ってところに着地するのも大変にリドスコっぽいですね。女性が所有物として見なされる世界において、勇気を持って性被害を告白したマルグリッド。しかし、夫は「自分の面子」つまりは「男としての誇り」のために決闘裁判を申し立て、あまつさえ被害者であるマルグリッドの命さえ掛けてしまう。そんな彼女に対して、神に成り代わった「法」や「科学」、そして神の信託である「決闘」が何をしたのか?と。それは卑劣極まりないセカンドレイプに他ならず、そんな奴はいないのと一緒である。というのは無神論者であり合理主義者であるリドスコの一貫した考え方であるし、それは間違いなく正しい。故に凄惨な決闘シーンが信じ難いほどにバカバカしく映る上に、やはりそこではマルグリッドの存在は徹底的に蔑ろにされてしまう。神は人を救わないのです。

そして相変わらずのことですが、リドスコは映画がうめぇなぁ〜!と。撮影、ライティング、構図、編集、美術に至るまで全てがキレッキレ。自然光を活かしたスタイルでの撮影ですが、もう完璧な画作り、完璧なライティングの連発。でありながら、これみよがせな感じが全くしない。これだけの作り込みをしていながら「はーい、あくまで作品の部品だからね〜」てな具合でトントンと繋いでいってしまう様はどうしたって圧倒されます。これだけ完璧な画もリドスコにとってはごく普通の「素材」でしかないのか….まさに匠の技ですよ。

最後に、議論の的になっているキツいレイプシーンについても言及しておきます。本作では目を背けたくなるレイプシーンが2回に渡って描かれています。このレイプシーンについて、「果たして描く必要があったのか?」という感想を僕もチラホラ目にしまして。これはかなりセンシティブな話題で、こういったシーン自体が表象として「性的搾取」に加担してしまうのではないか?ということもあるわけです。しかし、本作についてはそこはすごく気をつけて「性的暴行を消費する視点」は徹底的に排除されていると思うのです。そして、本作は「相対化しない」ということが肝としてある以上、描かないとそれこそ「藪の中」的な話になってしまうので描かざるを得なかったのだと思います(それは「羅生門」形式の一種の限界であるとも言える)。加えて、「見せないと彼女の告発を事実だと思えないのは受けて側に問題があるのでは?」という意見もあって。要は実際の性暴力は密室で行われることが多く、被害者本人の告発以外に証拠が上がってくることが無かったりするわけです。しかし、それでも告発した女性に寄り添って、あなたの告発を信じますという姿勢が大切である。ということに関しては僕は完全に同意。しかし、そういったことを知りもせずに無神経な言動で被害者をセカンドレイプするような人がまだまだ沢山いるわけです。もちろんmetoo以降の価値観がりより広く一般に浸透すればこんないいことは無いんだけども、今はまだ過渡期であるというのが現状の評価としては正しいかなと思います。だからこそ、一部の進歩的な人達にとっては「スタンダード」な部分でも、繰り返し言っていかなければならない。そのためには本作を相対化してしまうのは絶対に避けなければいけない。という意味で、レイプシーンは本作に関しては必要だったかなと思います。もちろんそういった部分を描かず、かつ進歩的な価値観まで見せている傑作だってあるわけですよ。だから逆に「レイプシーン自体をもう映画で見せるべきじゃない」みたいな言説は少し行き過ぎかなと。その作品の文脈次第では「描かないと伝わらないこと」っていうのは絶対あると思いますので、画一的なルールではなく個別のケースを個別に評価していくということが大切かなと思います。