1小節の隙間をスタッカートで埋めたくなる曲調なのに、一貫して空白が尊重される、そんな音楽がずっと鳴っていまして。
物語要素の配置にも同様の味わいがあって、トピックとトピックがぽつんぽつんと置かれ、その間をつなごうという意欲が感じられない。
枯山水の庭、あるじゃないですか。あんな感じにトータルコンセプトの存在は自明だけど細部を見ても分からん。「え、何、これ珍しい? オーソドックスでしょ」って主張するかのように……いや、作品は主張すらしてこないんです、感じるにせよ感じないにせよあくまで観客のおまえの責任、ぐらいに突き放される。
即ちパンデミック禍における新しいプロトコル=ソーシャル・ディスタンスを描いて……って作品を「分かったふうに」まとめてしまうのは乱暴だけど、映画館に来たはずが入ったら美術館でした、静かに時間が過ぎて。みたく、ふんわり「何か言ったふうに」まとめるのも危険で、じゃあ俺はこのレビューをどう〆ればいいのか問題。
本題とは関係ないけど日本ではまるでビジネスが成立しなかったカルフールが台北に根付いているの、納得いかないんだよなー?(違うな、そうじゃない、本作サムネイルがソレジャナイぐらい違う)