しょうた

イニシェリン島の精霊のしょうたのレビュー・感想・評価

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
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映画を観る体験をすべて言葉にすることはできない。この映画を見終わって、面白かったということ以外、うまく消化も表現することもできないものが残ったが、それでいいと思った。
だが、見終わってから一週間くらいすると、映画の記憶の中からあれこれ見えてくるものもあるようだ。

コルムからある日突然、絶交されるパードリック。誰かが言う。「コルムは考える人だ。」そして、お前はそうでないと。
賢い妹シボーンからも、兄さんはいい人と慕われるパードリックは、ロバを家族のように大事にする、自然とともに生きる人だ。人々が長きに渡ってそうして生きてきたように。
だが、コルムは考える人だ。われ思うゆえにわれありとデカルトは言った。パスカルも言った、人間は考える葦であると。それは、人間がただ自然の一部であるのでなく、主体的な存在なのだという近代人の宣言だった。
考える人であるコルムは、ある日目覚めてしまったのだ。自分が1回性の時間を生きる個人であることに。だから、限られた時間の中で生きた証を残さなくてはならないと強迫的に思ってしまったのだ。
だが、自然とともにあり、悠久の時間とともにある感覚の中で生きているパードリックには、コルムを理解することはできない。

ところで、人間は理性だけで生きているわけではない。どんな人の中にも意識と無意識があるように、自身でも制御しきれない衝動を抱え、時にそれに駆動されながら人は生きているだろう。
コルムは理性を重んじる近代的個人に目覚めた「考える人」だが、その行動は理性的とは言い難く、いわば狂気にすら見える。(コルムを指して「うつ」と呼ぶセリフがあるが、果たして100年前に現在使われているような意味で同様の疾患概念があったかは疑わしいが。)
コルムの矛盾に満ちた行動からは、むしろ昨日まで自身の内面の多くを締めていた自然人(パードリックと分かち合う善良さ)も時折顔をもたげ、その相剋の中で抑えがたい衝動に身を任せているかのようにも見える。それはどこか、目覚めた近代的個人を内なる自然人が罰するかのようである。(それは『ピアノ・レッスン』で、個人として愛に目覚めたヒロインを夫が罰するシーンを想起させる。)内なる自然人は、自らの曲の題名「精霊」としても表象される。

コルムは自身で抱えきれない内面の渦巻く葛藤を、自罰とも他罰とも取れる行動を実行することでパードリックをも、抜き差しならない葛藤に巻き込む。そうすることでコルムは孤独でなくなるのであり、これはパードリックへの甘えとも言えるかもしれない。
パードリックはコルムから内面に投げ入れられたやり場のない葛藤を、やはり破壊衝動によって解消しようとする。
この一連の応酬は、たびたび登場する内戦の砲声が示すように、人はなぜ戦争をするかの隠喩ともなっているだろう。

物語の要はやはり妹のシボーンだろう。自然人の兄と価値を共有しながら、ロバを室内に入れることは拒む近代人の顔を持つシボーンは、コルムと同様の「考える人」と呼ばれる。事態が抜き差しならなくなった(戦争状態)とき、シボーンが選択したのは両者から「距離を置く」ことであり、戦火から逃れるように島を離れる。その姿は近代人の生き延びていく道を示唆すらしているのかもしれない。

抜き差しならない確執の果てに、人は和解し合えるのか。ラストをどう受け止めるかは観る者に委ねられているのだろう。

追記)
人生は死ぬまでのヒマつぶしではないか、というセリフがあった。映画ばかり観ている自分のことを言われているような気もした。
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