シミステツ

カッコーの巣の上でのシミステツのネタバレレビュー・内容・結末

カッコーの巣の上で(1975年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

刑務所での強制労働を逃れるために狂人を演じ精神病院に入ったマクマーフィー。ろうあのネイティブ・アメリカン(「インディアン」と言っている)をイジりながらも、バスケを教えたり裏腹にどこか愛がある。精神病院という抑圧された中のコミュニティ。退屈しのぎにカードゲームを教えたり、ワールドシリーズを観ようと言ったり、電源の切れたTVを前に野球の実況をして盛り上がったり、金網から外に出てバスをジャックして患者仲間を連れ出す。逸脱した異端者が決して誰のためというわけでも偽善でもなく、ただ単に欲望に身をまかせた横暴を働かせた結果、医学という真っ当な治療をも超えて、人間をコミュニティを変貌させていくというさまが、まわりまわって真に革命的。危険人物が危険ではなく人々をいい方向に導くという。心にとって何がよいのか。管理主義では到達できない、解放してあげることで生まれる人間本来の自由さ。バスケで自分の役割を認識して笑顔になるチーフはグッとくる。

患者たちは強制ではないのに入院という殻に閉じこもり外に出ない、というのが無批判な社会受容の構造、労働者階級が資本主義のシステムに搾取されて言いなりにならざるを得ない構造にも近しいものだと思える。おかしいと声を上げ、本来の欲望を掻き立て、仲間を作り、自らを、集団を変えていく、まさに革命のあり方でしかない。チーフが耳が聞こえない「フリ」をしていたというのは「社会への順応」のメタファーであり、ロボトミー手術にあるように、考えさせないことが支配のあり方という。最後チーフがマクマーフィーを窒息死させたのはネイティブ・アメリカンの死生観で、ジャームッシュ監督の『デッド・マン』でもネイティブ・アメリカンの輪廻的生命観、物理的な生命が、寓意的な旅として捉えられてたりするけど、本作でも魂が肉体を持っているから肉体を切り離してマクマーフィーの魂と共に脱走を図ったという。そういう意味での「行くぞ」。革命は死んでも思想は消えないというのはこのこと。なかなかにメッセージのある映画でした。

マクマーフィーからしたらチーフへの托卵ということでもあるだろうし、カッコーはcrazyという意味もあるので、カッコーの巣=精神病院から抜け出したチーフということで、題名の意味が最後に分かるのもカッコいい。