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ウーマン・トーキング 私たちの選択のSPNminacoのレビュー・感想・評価

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監督としてサラ・ポーリーはガチだけど決してセメントはやらず、ロマンティシズムもあって、でもそこがまたやっぱガチ。削ぎ落としてソリッドな脚本。最近出版した回顧的エッセイ本が“Run Towards the Danger: Confrontations with a Body of Memory”ってタイトルなんだけど、まさにそんな映画だった。
女たちの議論は結論や選択よりも、語ること聞くこと声を共有すること。家畜や奴隷ではなく人間だからそれぞれに言葉があり歌があり、信仰もある。その言葉はどれも誰のものでも重く鋭い。フランシス・マクドーナンド演じる話し合いを拒んだ女には、言葉以上に雄弁な傷が顔に刻まれていて、また一方では、沈黙を以って抗う者もいる。一人一人決して同じではない声は、実はすべて一人の中にある声だともいえるし、女性自身が長い間繰り返してきた問いでもある。
地平線は画面の真ん中に置かれない、イーブンじゃない。空よりも畑の緑に覆われた、そういうバランスに見えた。彩度低い色合いも光が僅かしか差し込まなくて、夜が明けて目が覚める前の時間と世界。
閉鎖的コミュニティの支配構造、暴力の悪夢、それをないことにして眠る男、塞がれた目と耳、未知の世界への不安、束の間の安全、叶わない夢、拠り所にする善…と、”Daydream Believer”には何重にも意味が含まれる。おかげで、唐突に一方的に流れてくるあの甘いポップソングがなんとも居心地悪く不気味に聴こえてしまう。
また、暴力支配に対して結果的に平和的民主主義を実践していく女たちでもなお、暴力がそれしかない手段として残されるということ。その一筋縄でなさもきっちり見せるのが容赦ない。
何より心に残るのは、書記係としてその場にいる唯一の男性、オーガストのサイドストーリー、いや彼を主人公としたもう一つのメインストーリーだった。それがコインの裏表で成立してる。すべて知って記録しながら何もできない、だけでなく、守れなかったものすべてを背負わざるを得ない罪悪感。彼にも突きつけられた選択。今後”Daydream Believer”を聴くとベン・ウィショーが浮かびそうなくらいに、あのシーンは堪らなかった。ウィショーはオスカー助演賞ものだよ。
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