映画の射程は無際限であるがゆえに意匠やユーモア次第でいかようにも万物をフィルムに焼きつけることが可能で、キャストやスタッフもさることながらときにスクリーンを挟んで対峙する観客さえもその奴隷となりうるこ>>続きを読む
ミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズのMVを貪るように見て物心つく前の90'sカルチャーに思いを馳せ、ニュースクールものを聴きながら近所の公園でスケートボードを走らせていた(そしてオーリーすらま>>続きを読む
びしょ濡れになろうが酒やドラッグでやらかそうが、それがよくある若気の至りだとしても後年振り返って楽しかった思い出が残ればそれだけで尊いし最高。ひとつのイヤホンをLRで分け合って同じ音を聴くのは青春映画>>続きを読む
鵞鳥湖の夜は静寂とは無縁で、つねに何らかの音が鳴っていて騒々しい。バイクのエンジン、GPSのブザー、啀み合い、銃声、そうした物騒な喧しさと比して相対的に静けさの役割を引き受けるのは通奏低音として流れる>>続きを読む
真夏のパリを歩き続ける。昼夜の別なく、太陽から逃れるように、とにかく歩く。やがて疲れきって座りこむ。そしていつの間にか眠ってしまう。目が醒めてふたたび歩きだす。映画はひたすらその反復に終始する。モノロ>>続きを読む
全編とおして観たのは意外と初めてかもしれない。木漏れ日による明暗模様が人間の表情を豊かに彩る。その光源である太陽を真っ向から捉えたショットとそれをつなぐセンスも、当時としては革新的だったのだろう。活劇>>続きを読む
音声がひじょうに聴き取りづらい……。
性の不一致を理由に離婚調停にまで発展している最中でその相手となし崩し的に情事に及ぼうとしたり、死に損ねた自殺志願者と殺し損ねた嘱託殺人者がお互い未遂に終わった直後にキャッキャ騒ぎながら天然氷の上をスケ>>続きを読む
ひとりの女に翻弄され続ける男たち。ひと夏のヴァカンスにおける奔放な性の有り様をいささかの深刻さもないコミカルな筆致で描く、ロメール十八番のスタイルが確立した初期の佳作でもある。これ以前の作品ではあまり>>続きを読む
極端なクロースアップやガラス越しショットの多用が、家族を喪ってもなお生き続けなければならないジュリーの息苦しさの表象のようでもあった。思いのほかあっけなく終わった印象だが、クラシック音楽の素養のある人>>続きを読む
夏の終わりにまた観たくなって。歩く描写の反復や海と浜辺の真正面からの切り返しショット、それらを静謐に捉える柳島克己の抑制されたカメラワークが映画に心地よいリズムを生み出している。横と奥行きの運動を執拗>>続きを読む
白人のトニーと黒人のドク、ふたりを乗せた車が北部から南部へひた走り、(完遂はされなかったが)目的を終えてふたたび北部へと凱旋する。その途方もない距離の踏破は、人種間の融解のアナロジーでもある。そもそも>>続きを読む
建造物からナジャへのティルトダウンではじまり、歩道橋を渡るナジャのパンショットで終わるのが良い。ナジャの個人的な語りと、立体感のあるパリの街並みの優雅な対比。
ややもするとイースタンブロックの映画にも通じるような寂寥感のある画づくりにあって、室内でも頑なにコートを脱がない女のスカーフやヒールなどのハイソな装飾がひときわ目を惹く。
お互いがお互いを内心ばかにしあって、その危うさのなかでなんとか均衡を保っているような薄氷のつながり。哀しいけれど身につまされる部分もあり、人間関係に必定つきまとう利害や打算といった生存戦略の機微を軽快>>続きを読む
見ることと見られること、その単純な視線の運動によって物語が豊かに拡がってゆく。男はとにかく語る(から、厚顔無恥で滑稽な自意識ばかりが露悪的に掬いとられてしまう)けれど、女は自ら語らない。そもそも、語る>>続きを読む
そもそもが嘘で成り立っているメディアで嘘を語るということ。構造上の欺瞞を逆手にとった胡乱な作劇は観る者にめまいを誘引し、その迷妄のなかで寄る辺なく思考すら擲ってしまいたくなる。その帰結として不可避的に>>続きを読む
『CURE』における殺人教唆の手法は催眠暗示(メスメリズム)で、いっぽう本作では幽霊との視線の交錯がその引き金となる。サスペンスを喚起するモチーフは異なるけれど、いずれも教唆者との肉体的接触を介さない>>続きを読む
リヴ・ウルマンの目の芝居、それに尽きる。あれだけ目で語れる人を起用するとなったら、そりゃあ言葉を奪いたくもなる。
狭い空間で入れ替わり立ち替わりの猥雑なフレーミングや小気味よい啖呵の応酬など、ひたすらエネルギッシュな作劇に圧倒される。奪うでなく分け与うを是とする人情の美学も、笑えない現実を笑うしかない現実へと転回>>続きを読む
映画愛に貫かれているのはいいのだけれど、それを独自性の領域にまで昇華しきれていないというか、表層の戯れでしかないというか。終盤のデモ行進のシークエンスとか、なんであんなにチープな演出なのだろう。昨年『>>続きを読む
ファム・ファタールという形容があまりにも直截的に響きすぎるジャッキーのしたたかさ。『気狂いピエロ』に先鞭をつける愛の逃避行劇と言えば聞こえはいいが、その内実はカジノに通いつめて最終的に家財を蕩尽すると>>続きを読む
引き気味のローポジションによって強調される縦長の構図。日本式家屋に特有の剥き出しとなった柱や格子戸が画面を縦に分断し、それに沿うかのように垂直の運動が展開される。1階と2階の往還、しとど降る雨、くゆる>>続きを読む
16mmフィルム特有の肌理の粗さ、スタンダードサイズ、 80年代ニューヨーク表象としてのネオンや衣装の原色美。目の保養になった。
省略に次ぐ省略で目まぐるしくシーンがうつろう。カットを割りすぎるせいで零れ落ちてしまうものも多々あるが、淡々とした描写の積み重ねは暴力の卑近さを強く印象づける。演出としては初期キタノ映画的とも言えるか>>続きを読む
ベッドの下に隠れるシャオカンとその真上でまぐわう男女。ローポジションでシャオカンを捉えるカメラは情事そのものをいっさい映さず、喘ぎ声とマットレスの反復的な揺れだけでそれを表現しきってしまう。だれの心情>>続きを読む
視線をめぐる物語。誰ひとりとして目の前の相手を見ていないことに気づいてぞっとする。そんなことだから会話もなだらかに横滑りするし、話しながら浮つく瞳はしばしば一方的な窃視に注がれる。「言葉にする(=発話>>続きを読む
初見時の衝撃は忘れがたい。雨やそれにともなう浸水など、ツァイ・ミンリャンのフィルモグラフィに通底する"水"のモチーフは、本作(長編デビュー作!)からすでに援用されている。排水口から溢れでる汚水のごとく>>続きを読む
アメリカのインディー映画っぽい題材。ミラベルの凛々しい横顔にグレタ・ガーウィグの演じた女性たちを思い出す。第1篇「青の時間」が白眉で、動物や木々の息吹が16mmフィルムによる柔和な画面を豊かに彩ってい>>続きを読む
初出の人物がカットを割らずいきなり近景に割り込んでくる珍妙なフレームワークは、父親譲りの意匠と才気をたしかに感じた。全編を通してタルコフスキー的ではあるけれども。