晴れない空の降らない雨

未来少年コナンの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

未来少年コナン(1978年製作のアニメ)
5.0
 正真正銘の宮崎駿作品といえる唯一のTVアニメ。宮崎駿のほとんど全てが本作に詰まっていると言っても過言ではない。そしてとにかく面白い。私にとってはコナンといえば未来少年である。
 
 
■漫画映画への回帰
 大成功を収めた『ハイジ』後も高畑・宮崎コンビは続き、宮崎駿は『母をたずねて三千里』でも全話レイアウトを担当する。坂の多いジェノバの設計をはじめ、『三千里』における宮崎の仕事は決して無視できない。好みはあれど『三千里』の完成度は『ハイジ』以上というのが専らの評価だろう。が、見返す時間も気力もないのでマルコ君のことはまた今度。
 
 さもありなんだが宮崎は、『ハイジ』から始まった名作劇場の「日常」路線にウンザリしていたようである。高畑と宮崎の指向の違いが明らかになる中で彼に転がり込んできたのが、小説『残された人びと』のTVアニメ化企画だった。ここから宮崎が高畑から決定的に自立し、我が道を進むことになる。それはまず「漫画映画の復活」であり、本作から『ラピュタ』まで続く。
 
 
■漫画映画、名作劇場、SF
 この作品も語り始めるとキリがないが、とりあえず本作が「漫画映画」と「名作劇場(児童文学)」のハイブリッドになっていることが指摘される。この2要素はその後も宮崎作品を規定しつづけるが、本作では2要素が分離されており分かりやすい。
 そして本作で宮崎世界に加わった要素が「SF」である。もちろん宮崎が見せる機械装置への偏愛は昔からだが、人間の汗水と無縁になった機械に対する反感と危機感が物語の世界観を強く規定するようになるのは『コナン』からと言ってよいだろう。
 それではこの3要素について簡単に眺めていこう。
 
 
■漫画映画ルネサンスとしての『コナン』
 ゴチャゴチャ書いたが、結局のところ『未来少年コナン』とは古き良き「東映漫画映画」、といっても実質的に『長猫』と『宝島』の2作の生まれ変わりである。単純に本作はとても面白く、嫌味がなく、美術もアニメーションも素晴らしい。
 本作の起点はどこかといえば『どうぶつ宝島』だと思う。少なくとも前半は海洋冒険ものとしての側面があり(バラクーダ号で下働きさせられるくだりは『宝島』そのもの)、『長猫』的なドタバタ以上に少年の冒険活劇が重視されている。
 
 本作のアニメ―ションは単に枚数が多いから凄いのではなく、それが世界や人物を信憑性あるものとして描き出しているから素晴らしい。その意味で、観る人を画面に引き込む本作の力は、単に作画だけでなく、他の部門も含めた総合的な力である。頓挫した『ピッピ』から『パンダコパンダ』を経て『ハイジ』でついに達成された「世界に信憑性をもたらすディテールの描写」と、これぞ漫画映画という「アニメゆえの気持ちいい動き」、そのハイブリッドが宮崎作品の面白さを根底から支えている。
 
 また、摩天楼から地下までを貫く縦の世界構造も、漫画映画から引き継がれている(もちろん源泉は『やぶにらみの暴君』にある)。ただし、東映動画での参加作品ではあくまでアクションの舞台として用意された高低差が、『コナン』以降は世界そのものとして立ち現れてくることは見逃せない。
 
 
■『ホルス』村からハイハーバーへ
 「漫画映画」があくまで物語全体のトーンを規定しているが、物語の中間にさしはさまれるハイハーバー編では「名作劇場」の雰囲気が宮崎流の解釈の下で移植されている。これはハイハーバーの、ヨーロッパの田舎風の景色や、農業・牧畜・手工業が主体の生活様式に表れている。このハイハーバー編は要するに労働を通じたコナンやジムシーの社会化過程であり、物語の終結後の世界で彼らが野生児でなく普通人として生活できるようにと、宮崎があえて挿入したエピソードである。
 ハイハーバー編の由来は『太陽の王子ホルスの冒険』における村の生活描写であり、それらを克明に描くことを当時高畑に進言し自らアイディアを放出していったのも当の宮崎だった。『ホルス』の村やハイハーバー編には、「自然・人間・機械のバランスがとれた小社会で、労働を通じて人は社会化される」という彼の理想が見て取れる。が、他方で余剰生産物が少ない共同体の否定的側面も暗示されている。また、その後の宮崎作品でも理想がこの通りに描かれることは(多分)ない。
 
 
■破局としてのSF
 加えて本作で宮崎的世界像に加わった要素がSFだ。しかし、同時代の主流派のアニメと違い、主人公は巨大ロボットを操って活躍するわけでも宇宙を冒険するわけでもない。宮崎にとってSFとは「滅んだオーバーテクノロジー」のことであり、「世界の破滅」に関わるばかりか、そのものである。例えば、一見SFと真逆の時代劇である『もののけ姫』でさえ、テーマの焦点は新技術による自然破壊や人間界の混乱に当てられているという意味で、『未来少年コナン』からのつながりを見出せるし、宮崎作品の場合は見かけのSF要素の有無よりそちらの方がはるかに重要である。
 思えばもともと東映動画には、ディストピア世界としてSFを用いる作品があった(『ガリバー』『ゆうれい船』)。
 
 
■宮崎ヒロインの3類型
 本作に登場する3人の女性は明瞭に系譜図を描くことができる。
 
①ラナ:一途で優しく芯が強いtheヒロイン
 ヒロインのラナの一途さは、『白蛇伝』の白娘や『雪の女王』のゲルダに由来するだろう。彼女の顔は典型的な宮崎ヒロインのそれだが、森やすじや小田部洋一など先達のキャラデザを受け継いでいる。もちろん瞳の描き方に影響を受けたというゲルダのDNAも見て取れる(あとラナの民族衣装風のファッションはヒルダっぽい)。
 後続をみると、シータは明らかにラナに由来しているが、これは『ラピュタ』という作品全体に対して言えることでもある。一途さや優しさといった特徴に関していえば、以降の宮崎ヒロインのほとんど全てに該当する。宮崎が等身大の女の子を主人公に据えても、結局はそうなってしまう。
 
②モンスリー:合理主義の指導者
 インダストリアの冷酷な女幹部として登場するモンスリーは無論クシャナの原型であり、そのDNAはドーラ、エボシ、湯婆婆、サルマンといった女指導者たちに引き継がれていく。ただ、モンスリー自身はどこから来たのだろうか。
 
③テラ:怒れる野生児
 前2者より出番はずっと少ないが、乗馬が得意なテラは『雪の女王』の山賊娘(あと『どうぶつ宝島』のキャシー)の子孫であり、サンの先祖である。このことは、テラが逆手でナイフを持つカットによって示唆されている。
 
 直接的な系譜に入らないキャラクターも、多かれ少なかれ彼女たちの特徴を分け持っている。例えばナウシカには、ラナ、モンスリー、テラそれぞれの要素を見出せる。
 
 
★第6話の飛び降り
 本作の欠点は「コナン強すぎ」ということに尽きる。コナンに戦闘機を破壊されるとき思わずモンスリーが「そんなバカな!」と叫ぶわけだが、本作のアクションは「そんなバカな!」の連続である。コナンの超人的身体能力がなければ、本作が成立しないことは間違いない。それはストーリーもそうだし、アクロバットの面白さが大きな魅力になっているという意味でも言えることだ。
 それでも第6話の大ジャンプは物議を醸すことになっても仕方ない。ここではコナンが絶体絶命のピンチをどう切り抜けるかがスペクタクルになっているのだから、「そんなバカな!」ものであっても何らかの工夫(言い訳)がなければエンタメとして成立しない。あの大ジャンプはリアリズムの点からも逸脱しすぎだし、エンタメの点からも大幅減点である。
 この大ジャンプは、ジブリ以降も宮崎駿作品の弱点を象徴するシーンだと思う。それは、彼のストーリーメイキングの弱点である以上に、本作が確立した制作体制(監督自身への一極集中)の問題点だろう。劇場版『ナウシカ』のエンディングは、鈴木敏夫と高畑勲の介入によって変更されたが、有力者の助言が奏功するケースばかりではない。もっともアメリカ式に話し合えば良いものができるとも限らないのが、エンタメの難しいところだが。