せーじ

すずめの戸締まりのせーじのレビュー・感想・評価

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.5
はじめて地上波で放送される、ということで、少し前に書いた感想に手を入れて、再度投稿したいと思います。

ということで、342本目(再投稿)。

『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』を経て、ようやくこの作品を観ることが出来ました。巷では賛否が深い部分にまで及んでいる本作、不安になりながらもブルーレイを再生、鑑賞。





素晴らしかったです。
フォロワーのKKMXさんがご自身の評でおっしゃられている通り、本作では作り手がそれまでの作品から数段階飛び越して、ネクストレベルに到達しようとしていると感じました。過去の作品と比べてもそれは明確に表れていて、これまで自分が問題だなと思った部分が解消されているだけではなく、今まで作品内でしようとしてこなかったことを、誠実に投げかけようとしていました。過去最高傑作と言っても過言ではないと思います。
…ただし、どうしても賛否は分かれてしまうでしょうが。

■「カギをかけて戸締まりをする」というのはどういう意味か
最初のシーン、作り手ご本人の作品群を通した一般的なパブリックイメージを具現化しようとすると、誰もが真っ先に思い浮かべるであろう「例の星空」が画面に映った時、思わず自分は「またかよ」と呟いてしまいました。しかし、その後の展開を経て一回目のタイトルがバーンと出た瞬間、自分はその認識が間違いであるということに気がついて愕然としてしまったのです。「そういうことなのかよ・・・」と。
一般的に「戸締まり」って何のためにするのかを考えると、防犯、つまり外からの誰かによって、勝手に自分の部屋に入られないようにするものですよね。それって言い換えると「外に出かけている間、誰かに部屋を勝手に荒らされないようにする=誰かに部屋を勝手に見られないようにする」為にするものだと思うのです。しかし、カギをかけておけばその部屋はずっと永遠に放置していても大丈夫…だとは限らないですよね。それこそ留守中に地震が起きたりするかもしれない訳で、形があるものは、放置し続けていればどのような変化が起きても不思議ではないわけです。ということは、「"カギ"をかけて持ち歩く」という行為は「定期的にその場所に舞い戻って、きちんとカギがかかっているかどうか確かめることなどを引き受ける」ということになります。平たく言うと「自分の責任で維持管理をし続けることを選ぶ」ということですよね。
…そこまで考えてすげぇな!と思ってしまったのです。
それってつまり、「自分自身の内的世界を全部否定して消し去るようなことをせず、かといってその世界にだらしなく入り込んだまま溺れ続けるようなことも拒みつつ、そういった場からの暴走によって外の世界に危害を与えないために、きちんとそこを"維持管理"しながら外の世界へと出かけていきます」と作り手が表明しているのだと思うのですよね。
凄まじい覚悟と決意だなと思いました。もちろん、批判を受け止める覚悟であることは言うまでもないことでしょう。そういった形でこれまでの自分自身を総括しつつ、自分自身への批評性も交えながらこれからどうするのかを明確に示そうとした内容に、心底感銘しました。

■「出会い」によって得ることが出来たものとは
こう考えていくと、何故「後ろ戸」がいつも廃墟にあるのかがわかります。そうです、さまざまな事情で「人の手」が加えられなくなってしまった場所だからです。作り手の分身である宗像がああいう生業を人知れず行っているというのは、様々な場所でかつてあったであろう暮らしだったり営みだったり出来事といったものを「知る」という行為そのものであり、知っていけばいくほど「そこに"後ろ戸の先にあるキラッキラな風景"と"今は廃墟になってしまった"原因"とを思い浮かべずにはいられなくなってしまった」ということを作品を通して吐露しているのではないだろうか、と思ったのですよね。そりゃ、そういうことを知っていけばいくほど、中盤、『あしたのジョー』の灰になったジョーみたいに真っ白になっちゃうでしょうし、「もうなんならオレが犠牲に…!」ともなっちゃっても当然だと思います。
それならば、ミミズとダイジンは何だったのかというと、さしずめそういった内面世界から表出しようとする清濁併せ吞むようなむき出しな感情と、それをせき止める理性のタガのようなものだったのだろうと思います。後ろ戸の世界そのものが作り手の内面世界であり、それはさまざまな場所にあって、それらは繋がっているのだと言いたいのだと思うのですよね。

そしてそこで重要になってくるのは、すずめちゃんの存在であることは言うまでもありません。

本作ではすずめちゃんと宗像の出会いをはじめ、数多くの「出会い」が、とても大切に描かれています。出会うことで物語が進み、出会うことで救われ、出会うことで大切な繋がりができるということを、ロードムービーの中で大切に描かれていきます。ここから言えることはつまり、作り手が様々な形で様々な物事を「知った」結果は、決して絶望だけではなかったのだと思うのです。ここまでにさまざまな人々との出会いと別れ、理解と嫌悪、絶望と希望…などなど、そこには様々な種類のものがあったのだとも描いていたのですよね。
平たく言ってしまうとすずめちゃんはそういった作り手を理解して愛そうとしてくれる人々の象徴であり、作り手にとってはとてもありがたい大切な存在なのだと思います。ここまでさまざまな作品を作り続けてきた作り手は、実際にすずめちゃんのような存在の人々に会うことが出来たのだと思うのです。(もちろんその中には、すずめちゃんやそれ以外の登場人物と同じ様な境遇の人々もいるのでしょう)「そういった存在が"戸締まり"を手伝ってくれるのなら、ぼくは頑張れるし、自分自身の内面世界を維持管理し続けることが出来るよ。だからキミも…!」と作り手は言いたかったのだろうと思います。それだけ作り手にとって、ここまでの人と人との出会いは、大切でかけがえのないものだったのだろうと思います。

…まあただ、そうだとするとそういう意味では「すずめちゃんがダイジンを逃がしたということは、すずめちゃんのような存在が作り手の理性のタガを外してしまった」と描いているようにも見えるので、なんともまぁ…と思ってしまいますよね。「そうだとしたら気持ち悪いよね、その考え方」となる人が現れてしまうかもしれないというのも仕方がないことでしょう。「大体そういう象徴を、ちょっと大人っぽい自分好みのビジュアルのJKに託すのはどうなんだ」ということですし、「おめーの妄想と、実際にあの時ああいう目にあった方々のトラウマとを一緒くたにするな」という批判は避けることはできないと思います。また、「カギを閉めて戸締まりをする」という概念を掲げている以上、「ドロドロな内面を隠して外の世界に迎合しちゃうのか、つまらないヤツになっちゃたよなオマエって…」と思う人も現れるかもしれません。ですが、今までの作品群と明確に違うのは、作り手自身がさまざまな「出会い」を経て「知った」結果、「内面"セカイ"の表出を食い止めながら、外の"世界"に居る人々へと、手を伸べ足を延ばそうと決めたところ」なんですよね。その姿勢がここまで作品の軌跡を思うと、何段階も先に進んでいるように感じられて、とても素晴らしいなと思いました。すずめちゃんたちに「こうしてほしい」と押し付けるのではなく、「ぼくはこうするから見ていてほしい。(そして君も、君自身の後ろ戸の先にある内面"セカイ"を大切にしてほしい)」と伝えようとしているというのも素晴らしいなと思います。

※※

ということで、この作品を経た次回作がどういう内容のものになるのか、とても楽しみになってしまいました。
以上が自分の「見立て」ですが、とはいえこの作品、ストーリーテリングがだいぶパワープレイ過ぎるので、「細かいところが気になる人」には向かない内容になってしまうかもしれません。仮に実写だったとすると観れたもんじゃない内容だと思いますが、「アニメである」という持ち味や特性を巧みに利用しつつ「もっと大切な、伝えたいことがあるんだ!!」と全力で作品そのものが観た人に投げかけようとしているような内容だったので、細かな物語の矛盾やご都合主義的な展開はこの際目を瞑っちゃってもいいかな!と自分は思えることができましたね。
個人的には、数年前に早稲田松竹で、大林宣彦監督の『この空の花』を初めて観た時の「ああ…わかる…わけわかんねぇ展開ばかりだけど、伝えようとしている内容が見える…読める…すごい…」とムスカ大佐みたいになった時のことを思い出しましたね。こういう構造の作品で、かつこういう内容の作品は大好物でした。
興味のある方は、過去作と共にぜひ。
そして、次回作も楽しみに待ちたいと思います。
せーじ

せーじ