せーじ

ルックバックのせーじのレビュー・感想・評価

ルックバック(2024年製作の映画)
4.7
346本目。
シネマイクスピアリで鑑賞。中規模のハコに十数人ほどの人出。
平日夕方なのでそこまで人出は多くなかったものの、観に来ていた人たちは明らかに「この作品を観るのを目的に来た人達」ばかりで、客席から伝わってくる熱量はとても高かったです。

実は3年前、この作品の原作をジャンプ+で無料公開された時に読んでいました。公開された日は"例の事件"から丁度2年経ったところだったということもあり、生々しい「痛み」を感じた記憶があります。でもまさか、その時はこんな形で再会することになるとは思わなかったです。予告編を観て、居ても立っても居られなくなってしまい、本当に久しぶりに映画館の予約チケットを取ってしまいました。息を飲んで、鑑賞。





不思議ですよね、映画って。
たった58分しか無いはずなのに、2時間以上の映画を観た時と変わらない質量と実感が、そこにはあったのですから。

■予告編を見ただけで泣けてしまった理由
恥ずかしいことに、本作の予告編を見ただけで、自分は泣けてしまって仕方がなかったです。なんでなんだろうなぁと上映前まで自分なりに考えたのですけど、よくわからなくて。…でも、今ならその理由が言語化できそうです。

それは、「藤野と京本がめんこいから」ですね。

どういうことか説明していくと、まず京本ってすごくわかりやすくピュアでめんこい人ですよね。まるで、絵を描くために生まれてきたかのような、ステータスのすべてを絵を描くために全振りしたかのような、朴訥で純粋な人として描かれているのだと自分には思えます。はんてんを羽織って裸足のまま藤野の前に飛び出したその姿は、まるで座敷わらしのようでした。
それと同時に、自分は藤野も京本とは違うベクトルでめんこい人だなと思ったのです。学校で天狗になりたくて、夜遅くまでマンガをシコシコと描いちゃうところとか。京本を舐めきった挙句、圧倒的な力量の差に愕然としちゃうところとか。でも絶対に京本に負けたくなくて努力しまくる様子とか。そのくせ周囲の言葉だけであっさりマンガを描くのを止めちゃうところとか。なのに京本に慕われてまんざらでもない態度を取っちゃうところとか。そしてやっぱりまたマンガを描くのを始めちゃうところとか。はじめて二人が出会うシーンとか、その後の雨の中のあのシーンとかなんて、二人が本当に微笑ましくて「めんこくて」、ほっこりとしてしまいました。
そういった二人の、人間臭く愛らしくてめんこいと感じられた先にある、「創作」というものに対する向き合い方というかピュアネスにやられてしまったから、泣けて泣けて仕方がなかったのではないかなと思います。

■藤本=藤野+京本+・・・
あまりにも当たり前かつ明白すぎて、こういうことを書くこと自体野暮の極みなのかもしれませんが、藤野も京本も、広い意味で原作者の分身というか、それぞれが原作者の一部分を形作っている存在なのではないだろうかと自分は思いました。藤野のめんこさは、原作者自身の感情をそのまま投影したものでしょうし、京本は、おそらくはこれまで原作者自身が見聞きし、愛してきたであろう、創作物に対する憧憬のようなものを擬人化した存在であるのではないだろうかと思ったのです。あるいは、もしかしたらそれは逆だと言えるのかもしれません。つまり、この作品は「広い意味での作り手の自我を、多様な形で意識的に擬人化しようとしていた」のだと思うのです。例えば映画『インサイドヘッド』では、人の喜怒哀楽がそれぞれ別の人格として擬人化されていましたが、あの作品よりも遥かに複雑で具体的な存在として、原作者の心の中に藤野と京本が確かに存在していたのだろうと思ってしまいました。
それをそういう方法で、あそこまで具体的に生々しく人間らしく、そして「めんこく」描ききっているということ自体奇跡的なことだと思いますし、アニメーション映画になったことで二人が動き出し、声を発するようになったことによって更に奇跡が加速しているように感じられるようになったというのは、本当に素晴らしいことだなと思います。
そして、だからこそ"例の事件"は、原作者にとって「この物語がああいう展開になってしまうような感覚に陥ってしまったということなのだろうな」と、自分は思いました。文字通り身を切られるような、"バールのようなモノ"で頭をぶん殴られるかのような。
その時の心中、如何ばかりかと思わずにはいられません。

ただですね…
ここから先は自分の勝手な推測ですが、この物語そのものが原作者の経験によって形成された自我から「創作」されたものであると定義するならば、もしかしたら"バールのようなモノ"を手にしていた"アイツ"すらも例外ではないということなのかもしれません。"アイツ"がぶちまけた言葉や動機とされた内容は、原作公開当時小さくない物議を醸し、後日内容が差し替えられるということが起こりましたが、もしかしたら原作公開当時問題になったような内容とはまるで違う感情を、原作者は"アイツ"に忍ばせようとしたのかもしれないな、と思ってしまったのです。それはたとえば、「ちょっと理解できてしまう」というような気持ちを。
もしもそうだとするならば、"(Don't)look back in anger"という言葉を、Oasisとデビットボウイから多重に引用したという意味が、一般的な解説で語られている内容とはまるで違う重さになるような気がして、自分は床の底が抜けて突き落されたような感覚に陥ってしまいました。「たとえ才能にねじ伏せられたと感じたとしても、もう"アイツ"のように怒り(嫉妬)をもって振り返ったりはしない」という意味が込められているのだとするならば、とんでもないなと思ってしまいます。
これが自分の勝手な妄想に過ぎないのであるならばいいのですが。。。

■「じゃあ藤野ちゃんは、なんで描いてるの?」
「"バールのようなモノ"で頭をぶん殴られた」その後、この物語がどうなってしまうのか…はネタバレが過ぎるので詳しくは書きませんが、京本が投げかけた問いに藤野は、エンディングで静かに、しかし力強く答えを掲げようとします。そうしようと決めた藤野の姿は感動的でしたが、藤野にそう決意をさせた京本が、彼女の部屋で藤野に見せた"振る舞い"もいじらしくて胸が詰まりました。劇中、何度も何度も、想像の中でさえ藤野は京本の前で強がりますが、京本にはそれはとうの昔に見抜かれていた…と自分は思ったのです。「背中を見て」というのは、「強がらないで、自分を省みてほしい」という意味なのかなぁと自分は捉えました。
何より藤野自身が「離れていても、私は彼女と同じことを考えていられた」「ならばどんなに離れてしまっても、彼女と同じことを考え続けられる」ということが実感できたという瞬間の畳みかけが凄まじく素晴らしかったです。
あの辺りのくだりは原作も素晴らしいのですが、本作もアニメーションならではの、アニメーションだからこその表現をもってそれを描ききろうとしていたというのが、作り手の流儀と矜持がひしひしと感じられて、心から感動しました。
そして、タイトルにもある通り「ルックバック」すると…という。
本当によく出来ていると思います。
久しぶりに、映画を観ていて心が震えました。

※※

ということで、ようやく映画館に戻ることが出来ました。
この映画を、その最初の作品として選ぶことが出来て本当に良かったなと思っています。
まだ観ていない方は、ぜひぜひ。
せーじ

せーじ