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TAR/ターのKtoのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
5.0
緻密で洗練された完璧な映画だった...。
決して高揚感を煽るようなプロットではない(はずだ)が、鑑賞後の高揚感が凄かった。

“サスペリア(2018)”とか”ノクターナルアニマルズ”の様な、高潔な舞台設定と狂気を感じるほどの重厚な語り口。重厚だけど、難解ではなくて、解釈を観客に委ねるというよりは、観客に多元的な刺さり方を提供する懐の深さ。

表層的には”#metoo的な権威の告発”や”キャンセルカルチャー”を扱っているようにも見えるけど、”被害者”でなく”加害者”を主人公に据えているのが新規性が高く、面白い。ジャニー喜多川の性加害のニュースがトピックになっているので、とてもタイムリーだと思った。僕も20代のフィルターバブルとエコーチェンバーにどっぷり浸かっている身なので、我々の世代が50代という権威的な立場からどう見えるのかについて示唆的なシーンが多くて、新鮮な感覚だった。我々の世代は、SNSという”キャンセルカルチャーの温床”を武器にも使える扱いにくい世代なのだと思う。思考や行動パターンがSNSに規定されている世代でもあり、ターの言う様に”ミレニアルロボット”と悪態をつかれても反論できないなとは思った。レコードではなくYoutubeで種々の情報を、権威的な重み付けのはしごを外した状態でフラットに吸収する感じは、ロバートグラスパーが「マイルスデイビスがYoutube世代だったらこういう音楽を作っていただろう」という趣旨の発言をしていたこととも完全にリンクする。”多様性”や”倫理性”の判断基準をプロフェッショナルの評価にどこまで適応させるのか、とか考えさせられる。

胃が痛む様な緊張感のある長尺カット(緩やかだが確実なパワハラ講義)や、ダイアログなのに無闇に切り返さない独特なタイム感はハネケ映画でも編集を努めるモニカヴィッリの手腕なのか。全体的に”ハネケ”的なトーンを感じた。また、演出も非常に堅実で、”解釈の余地を残す”ような曖昧な演出はほとんどなく、とても手堅い(オケ中のシャロンの目線だけで心情を語るところとか映画として完璧だと思う)。

ターの権威を中心とした、周囲の人達との取引的な関係が終始緊張感がある。フランチェスカとの関係も、明示はされないけど過去の性愛関係を匂わせるし、おそらくそれがターの権威によって引き起こされていることは明白。自身の夢を追う道程でターの権威を利用しつつ、性愛へ関与している節がある。シャロンも「権威あるターのパートナーであること」によって得ているベネフィットもあるためか、ターの利己的な振舞い(セルフブランディング力の高さでそこまで露骨ではないものの)に目を瞑っていることもある。しかし、権威の張本人は、終盤に第三世界のマッサージ店で少女売春の店に入ったときに、初めて過去の自分の業の深さを自覚して嘔吐するほど、それまでは権威を行使することに無自覚であったことが窺われる。偉大な才能と立場の持ち主には、暴挙すら正面切って指摘されず、いつまでも「自分がハラスメントをしていること」に認識が追いつかない構造を表している。

以下、雑記

・音楽のヒドゥル グドナドッティル(JOKER, チェルノブイリの人)が偉大すぎる。サウンドトラックアルバムも、コンセプトが面白いからぜひ調べてみるといいと思います。

・ほぼ、唯一観客に解釈を委ねていると思われる、「オルガを追いかけて廃墟を彷徨うシーン」が現実なのか虚構なのか、については監督も回答を与えていない様子→https://moviewalker.jp/news/article/1134644/
ところで、問題のラストシーンも全く解釈が別れる余地はないと思ったけど、確かに唖然とするテンポで進むから驚いた。
(町山智浩さんは、そのためにスタッフロールが敢えてオープニングに入れられている、と言っている)

・”地獄の黙示録”がなぜあのタイミングで触れられたか、をずっと考えてたんだけど、地獄の黙示録の原作小説 “闇の奥”は「閉鎖的な世界で祭り上げられたカリスマが、第三世界の奥地で巣食う話」だったなと思ってターの今後を示唆してたんだと気づいて、芸の細かさに怖くなった。ゲーム音楽はクラシック音楽からの没落ではなく、第三世界での再出発を意味しているのか。

・Challenge(機内のトイレで開けたプレゼントの本)の作家は、実際にヴァージニアウルフと女性同士の恋愛関係を結んでおり、ターと送り主の関係を暗示しているらしい。

・ターが実家に帰るシーンで、実の名前が”Linda”であることが発覚してようやくわかることもいくつかある。ホテルのバスルームでラジオを復唱しているのは、低い階級の英語発音を矯正するためのトレーニングだったんだ。
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