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彼女のいない部屋のarchのレビュー・感想・評価

彼女のいない部屋(2021年製作の映画)
4.8
https://www.arch-movie.com/entry/kanozyonoinaiheya

「家を出たのは私じゃない」
夜更けに子供2人と夫を置き去りにして家を出ていく妻クラリス。ヴィッキー・クリープス演じるクラリスのそんな行動から始まる本作は、彼女が「母親」や「妻」といった属性から抜け出し、旅に出る物語を予感させる。確かに昨今の性別によって役割や属性を決めつけられる風潮への問題意識からそういった作品は増えている。中でも最近だと『三姉妹』などの家父長制への反抗を描いた映画は、それはもう素晴らしい問題意識とクオリティーだった。他にもカルト的な人気を誇る『ワンダ』の復刻上映もあり、そういった作品を観ている方なら余計に「女性の属性からの解放」の物語なのだと推測するはず。
本作の冒頭のシーンや彼女の晴れ晴れしたドライブシーンは確かにそのような映画の冒頭を思わせる。だが次第に違和感に気づき始める。

違和感は「音」で始まる。
全編に渡って使われ、印象に残るのはピアノの音。それはリュシーはピアノを習っているシーンで流れる音なわけだが、最初にかかるのは車のカセットテープの音源である。音源から流れる「エリーゼのために」は全くなってなく、音階練習の段階である。だが、クラリスの独り言であるはずの"呼びかけ"によって「エリーゼのために」は段々とリズムに乗り始め、立派な演奏になっていく。
はて、ここでは何が起こったのだろう。過去の記憶(家)とドライブ中の彼女(車)が音を通して相互に干渉した場面であり、クラリスの想いがリュシーの存在に干渉したようにみえる。この後も常に「彼女」と「彼女のいない家族」は別々の場所と時間に居て、時空のズレがある。だがカットの連続性と劇伴を兼ねるリュシーの音楽によってそれらは不思議な繋がりを示す。劇中の"イン"の音楽から劇伴としての"アウト"へ、また劇中の"イン"の音楽へと変化していく流れも非常に不思議な感覚に陥らせてくる。
そんな不思議な感覚を保持したまま、映画開始30分である"ネタばらし"する。
「家を出たのは私じゃない」という言葉の真意が分かり、彼女は決して「女性からの属性の解放」を目的に旅に出たわけではないことを悟るとき、この物語のいわゆるギミックが分かってしまう。「彼女」と「彼女のいない部屋」は「彼女」と「彼女の(自己防衛の為の逃避的)妄想」だったのだ。

だが本作はそのギミックを僅か30分で提示することから分かるように、そのギミックが目的の作品ではない。そのギミックは言わば舞台装置でしかなく、本作の主目的たる「彼女の心境を追体験すること」の為に必要な構成でしかない。この映画が何故、このような映像(カットの連続)になったのかは正しくクラリスの心境によるものであり、その構成に自覚的になり「何故こういった映像になったのか」に思いを馳せることは、「彼女の心境を追体験すること」に他ならなくなる。
彼女の中に生きる家族の姿が全く虚構として振る舞わないディテールで描かれることもその一因といえるだろう。
観客は気づいてしまったギミックが勘違いであってくれと願ってしまう。また自分はそのギミックを通して都合の良い映画的な飛躍によって彼女が救われるのではないかと期待してしまった。その淡い希望すら「彼女の心境を追体験すること」を強化するのだ。

映画ならではの全く違う概念や時空を曖昧に交錯させ、矛盾を矛盾のままに提示出来る力によって、彼女の心境は映画に表象される。死体と対面するために長い冬を超え春を迎える為に、彼女が行った綺麗事ばかりではない出来事の数々。それがいわゆる再生の物語をリアルなものにして、より現実に根付いた受容を可能にする。

「女性の属性からの解放」ではなく、「属性を突如失ってしまった彼女はどう受けいれるのか」という物語、そしてギミックは映画的な趣向ではなく、彼女のためのものであること。それらの彼女を芯に置いた本作は見事な作品だと思います。
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