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じゃりン子チエのninjiroのレビュー・感想・評価

じゃりン子チエ(1981年製作の映画)
3.8
授業参観かぁ…。うち、ああいうの好かん。

何でやろ、お母ちゃんと会うの嬉しいのに、帰りはいっつも元気なくなる…うち、なんでぇ?

子が思うほどに親は強くはない。
親が思うほどに子は弱くはない。

大きなお天道さんが照らす小さな町で、
小さな悩みと胸焦がす想いが行き惑う。

大阪西成、自由という名の捨て鉢な暮らしに漬かり、自分の歩いて行ける範囲内、自分の暮らしに影響を及ぼす範囲での自分の立ち位置にしか興味のない男、テツ。
その娘として生まれ、離れて暮らす母への思慕を引き摺りながら、ろくでなしの父を庇うために大人の世界に紛れて暮らしを立てることを厭わない小5の娘、チエ。

細々と営まれるホルモン焼き屋を切り盛りするチエは、西成で展開される独特の大人の世界と子どもの世界を行ったり来たり。
ここで描かれる世界は、今の子どもには恐らく理解できまい。
子どもの頃、昭和の香りを嗅いだ私にも相当に怪しいのだから。

いい意味でも悪い意味でも、各々の家庭の事情、親子の情愛や向こう三軒両隣の中での独特のルールがその小さな暮らしの中で最も尊ばれ、口出しもすれば息を潜めて見守る時もあり、そこで生まれる歓びにも哀しみにもその人それぞれの節度で干渉し合う。

基本描かれるのは口汚く罵り合う大人や子どもの風景だが、彼らの感情がガチャガチャと不器用な音を立てながらぶつかり合うその向こうには、常に彼らがそれぞれに営む小さな暮らしを慈しむ姿がある。

チエもテツも強く生きる。
チエは誰よりも敏感に置かれた身の不幸を感じている。
テツにしても誰よりも自身の不甲斐なさを知っている。
しかし、彼らはその不幸や天資に甘えて沈むことは決してない。
彼らは皆、強さと弱さをちょうど半分ずつ持った普通の人たち。
自分の身と相手の身を両手に等分に抱えて日々を暮らし、
いざと云う時にはいつでも自分の身よりも一番に、誰か愛する相手のことを想うのだ。

初めて家族3人で遊園地を訪う電車の中、
そしてその帰りの電車でふと溢れる詩情は、本作でも随一の心が震えるポイント。
きっと全てが上手く行くことなんてない。
幾らでも取り零しはあるだろう。
それでもなお今目の前にある幸せを小さな身体と心で享受せんと、夏の繁茂期に日を浴びなかった枝はその一瞬に芽を吹き精一杯葉を伸ばし、逞しき生命を見せる。

現実は確かに辛い。しかし辛い辛いとばかり言っていても仕方がない。

「今」が冬だとすれば、彼らがその暮らす世界で奮闘する様は、やかんを乗せた石油ストーブのように懐かしくも芯から暖かく、冷たい「今」を精一杯暖めるに足る。
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