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呪詛のこどものレビュー・感想・評価

呪詛(2022年製作の映画)
3.3
今回、若干のネタバレ注意
※未鑑賞で読んでも多分意味不明なのでネタバレ隠し使用せず

本作で邪神として崇められている大黒母仏の出典は恐らく「チャムンダー」と呼ばれるカーリー像だ。手にはトカゲの様な生物や生首などを携え、コレラや天然痘などの疫病を司る女神である。大黒母仏も手にカエルや仏像の頭部などを持ち、ルォナンやドュオドュオに「祟り」として顕れた豆粒状の丘疹はまさに天然痘のそれである。
村人が使用する独特のポーズ。「幸せ集め」を意味する形の真逆。人から人へ流出し続ける悪意のポーズが象徴するように、呪いが拡散し急速に広まっていくその様は、防ぎようがなく、どうしようもなく死んでいくしかなかった時代に於ける感染症への恐怖とリンクする。

さて、大黒母仏が「信者たち」に求めたのは一体なんだったのだろうか。恐ろしい儀式が行われ、祟られた信者たちは皆、名前を奪われ、歯が抜け落ち、髪も抜け落ち、耳を失い、目も鼻も口も潰される。これが意味するのは個性の否定、即ち「均一化」かと思っていたが、大黒母仏の「顔」を見たとき、あぁ、大黒母仏が信者に強制したのは、均一化などよりもっと深い「無貌」だったんだと理解した。
無貌。人間は相互作用の生き物だ。「誰」かによって生かされ「誰」かを生かす悦びを感じる事が生きることなら、個人を特定する「顔」を失うということは、人間にとって精神的な「死」を意味する。
「無貌」を以て我に接せよ。大黒母仏はそれを求めているのかもしれない。

だがしかし、この世には見返りを求めない一方通行のコミュニケーションというものが存在する。所謂「無償の愛」と云われるヤツで、それに代表されるのが「母の愛」である。
本作の(裏?)テーマが「母の愛」であることは一目瞭然だが、ずっと引っかかっていたことがある。先ず、ルォナンがカメラに向かって話しかけるシーン。これは一体何なのか。彼女は映像を録画しているのか。配信しているのか。それがよく分からない。ドュオドュオの幸せを願う場面では、「私のことは忘れて」といったセリフまで出てくる始末。録画や配信なら、その映像が将来ドュオドュオの目に触れる可能性があるわけで、その中で「私のことは忘れて幸せに生きて」など言われても本末転倒になってしまう。これではかなり恩着せがましく、先程の「無貌」の象徴、見返りを求めぬ「無償の愛」とは反してしまう。そんなこんなで頭を悩ませていたら、ルォナンが突如「第三の壁」を超えて「私」に話しかけてきたので面食らってしまった。些か乱暴ではあるが、なるほどそれなら筋は通る。このシークエンスこそ『呪詛』最大のカラクリであり大どんでん返しのパートと呼べるのだが、正直それで良かったのか感は拭いきれない。
第三の壁を超えるって、ぶっちゃけずるい。『デッドプール』みたいなコメディ色の強い作品で隠し味的に使用するのは全く問題ないと思うのだが、それ自体を作品の要にしてしまうのは如何なものか。作品でオカルトを描いているのに、作品の舞台装置までオカルト仕掛けにしてしまっては醒めてしまうし、出来の悪いミヒャエル・ハネケ作品の様な後味が残ってしまった。
でもまぁ、思い切ったことをやったのは確か。意欲作だとは思う。

俺もはやくドュオドュオと共に親親幼稚園(ちんちんようちえん)に通いたい。
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