YasujiOshiba

Tutti a casa(原題)のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

Tutti a casa(原題)(1960年製作の映画)
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イタリア版DVD。24-46。一応修復版で画質はよし。でもイタリア語の字幕がつかない。ときどきあるけど残念。これはほんとに名作なのに。イタリア版にはブルーレイも見当たらないが、どうやらフランス語版は『La Grande pagaille(大混乱)』のタイトルで、ブルーレイとDVDのコンボでブックレット付きが出ているようだ。ちょっと食指が動くけどここは我慢。

 アルベルト・ソルディがよい。モニチェッリのこれまた大傑作『戦争・はだかの兵隊(La grande guerra)』(1959)での一兵卒から、ここでは少尉に昇進しての名演だけど、まずはソルディらしいお調子者ぶり。中尉になって部下を持っても、あいかわらずの「お調子者」の上官ぶりというのがよいのだけれど、そこからドラマチックに変化してゆくのは、モニチェッリの『戦争』と同じ。ただし、あちらが第一次大戦の「カポレットの敗戦」()の話だとすれば、こちらは第二次大戦の、それもイタリアが休戦協定を発表した日(1943.9.8)から始まり、「ナポリの4日間」(1943.12.27-30)までの5ヶ月弱を描く。

 冒頭のシーン。ヴェネト州にある海岸線の防衛基地で、アルベルト・インノチェンツィ少尉(ソルディ)が部下を行進させている。そこにラジオからバドッリョ首相の休戦協定の発表が聞こえてくる。

「イタリア政府は、圧倒的な敵勢力に対して戦力的に不均衡な戦いを続けることが不可能であると認識し、我が国へのさらなるより深刻な被害を免れるために、英米連合軍の最高司令官であるアイゼンハワー将軍に休戦を求めた。申し出は承認された。したがって、英米軍に対するあらゆる敵対行為を、あらゆる場所のイタリア軍は停止しなければならない。しかしイタリア軍は、そのほかの方面からの攻撃があった場合にはこれに反撃することになるだろう」
(Il Governo Italiano, riconosciuta la impossibilità di continuare l'impari lotta contro la soverchiante potenza avversaria, nell'intento di risparmiare ulteriori e più gravi sciagure alla Nazione, ha chiesto un armistizio al generale Eisenhower, comandante in capo delle forze alleate anglo-americane. La richiesta è stata accolta. Conseguentemente ogni atto di ostilità contro le forze anglo-americane, deve cessare da parte delle forze italiane in ogni luogo. Esse però reagiranno ad eventuali attacchi da qualsiasi altra provenienza.)

 誰もがこのラジオ放送のことを知っていたわけではない。部隊の料理人たちがラジオ番組を別の局に変えたときに、たまたま聞こえてきたのだ。それでも「休戦」(arimistizio) が「受け入れられたこと」(La richiesta è stata accolta)、そして「イタリア軍はあらゆる場所で英米連合軍への敵対行為を停止させねばならない」ということは、バドッリョ将軍の名前とともにはっきりと聞きとれた。驚いて料理人は外に走り出すと、上官に「休戦」放送のことを伝える。困惑する上官。誰も休戦の連絡を受けていなかったのだ。

 ところがドイツ軍はすでに情報を入手しており、イタリアの制圧にかかる。ラジオ放送直後にイタリア軍本部は急襲し制圧してゆく。友軍からの突然の攻撃にとまどうイタリア軍。幸いなことにアルベルト・インノチェンツィ少尉は、基地を離れて街中で部隊を行進させていた。砲弾と銃撃の音が聞こえてくると、すわアメリカ軍の上陸だと勘違いして本部に駆けつけるのだが、まだ友軍だと思って手を振ったドイツ軍から銃撃されて、なんとか逃げることができた。

 それにしても、アルベルト・ソルディの演じるこのインノチェンツィ少尉の造形がみごと。その役名の名は同じアルベルトなのだけど、姓のインノチェンツィ(Innocenzi)は、「イノチェンティ」(innocente)から来て、「無邪気な」「まだ害を及ぼさない」の意。実際、このインノチェンツィ少尉は、どこか能天気で、上官の顔色を伺う日和見主義のお調子者。自分から何をするでもなく、指図されたことをこなすだけの「害のない」(innocente)人物。

 ところが今や頼みの上官たちは制圧され、インノテェンツィの頭には総合本部へと合流することしかない。なんとか最初は上官らしさを保ち、部下を率いて移動を始めるのだが、真っ暗なトンネルを移動中、部下のほとんどが消えてしまう。戦争が終わったと知った兵士たちは家に帰っていったのだ。

 インノチェンツィのもとに残ったのは、ナポリに帰る途中で途中で合流したアッスント・チェッカレッリ工兵(セルジェ・レッジャーニ)だけ。ふたりは、ドイツ軍の列車が捕虜となったイタリア兵たちを貨物車につめこんで運んでゆくのを目撃する。それは、後に政治犯やユダヤ人たちを収容所送りにする「死の列車」の最初の一台。列車が一時停止すると、家族に宛てたメッセージの紙切れが、空気穴の隙間から外に投げ捨てられ、小さな女の子がその白い紙片を集めてまわる。あの「死の列車」で繰り返される光景だ...

 そんな光景を目撃したインノチェンツィとチェッカレッリは、食事を求めに入った農家で、上官から状況を説明される。軍服を脱がないた捕虜にされて捕虜としてドイツに送られると教えられるのだが、そこにインノチェンツィの部下だったクィンティーノ・フォルナチャーリ軍曹(マーティン・バルサム)とコデガート砲兵(ニーノ・カステルヌオーヴォ)と合流。

 一行はパルチザンのトラックと出会うが、上官だけが残って戦うという。インノチャンツィと元部下たちは自分たちの家に帰ることにする。ここから、タイトルにあるように「みんな家に」(Tutti a casa)向かう物語が始まる。最初の物語は、インノチェンツィが抜け駆けをする話。みんなのためにトラックを調達してくると言いながら、トラック運転手の女房と出会い、小麦を積み込んで街で売り捌こうとする。小さなトラックだから仲間の兵士は置き去りだ。ところが途中でトラックはパンク。小麦に気がついた住民たちがいっせいに襲いかかり、あっという間に荷台は空になる。

 そこに部下たちがやってくる。捕まったかと心配していた部下。仕方ないじゃないかと開き直るインノチェンツィの厚かましさ。ここはソルディが見事。殴り合いの喧嘩になりながらも、目的はそれぞれの家に帰ること。一行は、ともかくも一番近いコデガート砲兵の家に向かうことになる。途中で難民たちと合流するが、そこにいた学生のシルヴィア・モデナ(カルラ・グラヴィーナ)と出会う。

 コデガートは家も家族も失ったというシルヴィアに同情、ほのかな恋心を抱く。ぼくのうちにくれば良いと誘う。渡しで一緒になったドイツ兵が、学生の彼女が持っていたノートを見て、姓がモデナであることに気が付く。姓が都市の名前のイタリア人にはユダヤ人が多いと言い出すドイツ人。一行は全員でイタリアでそんな都市は聞いたことがないという。もちろん嘘だ。
 
 こうして難民と一行はうまく検問所を通過してバスに乗り込むのだが、次の瞬間、ドイツのサイドカーがおいかけてきてバスを止める。シルヴィアがユダヤ人だと気づかれたのだ。逃げる彼女に銃を向けるドイツ兵。守ろうとするコデガートが背中を撃ち抜かれる。シルヴィアの逃げていった方角からも銃声が響き渡る。難民たちも散り散りに逃げ出してゆく。

 残った3人はフォルナチャーリ軍曹の家に向かう。歓迎を受けるが、じつは屋根裏にアメリカ兵を匿っているという。かつては敵だったアメリカさんだ。最初はお互いに不信感をむき出しにする。全員がポレンタを食べるシーンがよい。腹が減っている。でシンプルな料理でも、ポレンタはご馳走なのだ。もんじゃ焼きのようにテーブルに広げられたポレンタを、みんなが一斉にホークでつつく。まんなにはソーセージがある。セコンドだから最後に食べるべきなのだが、アメリカ兵が手を出してしまう。ダメだぞと怒るインノチェンツィ。戦場の文化的ギャップ。みごと。

 それでもアメリカ兵としだいに打ち解けてゆくインノチェンツィ。ジンジャー・ロジャースが大好きなんだ。フレッド・アステアとのダンスが最高だったなんて話でもりあがり、打ち解けてタバコを分けてもらう仲になる。そのときだ。ドイツの占領下で復活したファシストたちが、捕虜を探しにやってくる。せっかく家に帰ったばかりのフォルナチャーリ軍曹と、アメリカ兵が連行されてゆく。それを畑に隠れて見送るしかないインノチェンツィとチェッカレッリ。

 ふたりはインノチェンツィの家にたどり着く。場所は今ではラティーノと呼ばれるローマとナポリの中間にある街。1932年にファシスト政権下で沼地を干拓して創設された人工都市であり、かつてはフィアシスト風に「リットリア」と呼ばれていた。だから住民にはファシストが多いということか。実際、インノチェンツィの父親も音楽家なのだがファシストと近い。ファシストこそが自分たちを豊かにしてくれると信じている世代であり、音楽家として貧乏した反省からか、息子には制服をきて出征してもらいたいと願っている。

 この父親を演じるのがエドゥアルド・デ・フィリッポ。息子思いの貧乏な音楽家であり、息子を思うあまりファシズムを信じている父の依代となると、ソルディとみごとな掛け合いを見せてくれる。見逃せない名シーン。なにしろ息子は、もはやファシズムを信じられない。ましてや、復活したファシスト共和国なんかで再び軍務に就くことなど夢にも思っていない。明日の朝出頭するようにという父の言葉に、やさしくわかったよと言いながら、早朝にチェッカレッリを起こすと、しずかに家を出る。

 最後の話はナポリ。チェッカレッリの帰郷になるはずの街なのだが、ふたりはファシストに捕まり、ドイツのトート機関(Organisation Todt)のもとで強制労働をさせられることになる。連行の途中で、チェッカレッリは我が家の窓を見つけるのだが、帰ることができない。強制労働の最中に、インノチェンツィたちは脱走に成功。しかしチェッカレッリは逃げ遅れる。そのととき、武装した住民がドイツ軍を襲撃する。「ナポリの4日間」(27-30.12.1943)と呼ばれる住民反乱の始まりだ。

 このときインノチェンツィは、これまで帰郷の旅を共にしてきたチェッカレッリが撃たれて倒れるのを見る。ほかの仲間の制止もきかず、銃弾の雨のなかを助けに駆け寄る。足が効かないというチェッカレッリ/レジアーニ。足ならついてるぞ大丈夫だとインノチェンツィ/ソルディ。何も感じない。これじゃ家に帰れないなとレジアーニ。おれが担いで帰ってやるとソルディ。しかしレジアーニには、もはや無理なことがわかっている。

「せめて美味いタバコが吸いたいもんです」
(Qui ci vorrebbe una bella sigaretta.)
「持ってないんだよ」
(Non ce l'ho. )
「タバコ一本もダメとは。畜生め、ついてないや」
(Nemmeno una sigaretta... Mannaggia come sono sfortunato... )

 こうしてソルディ/インノチェンツィのての中で息を引き取るレジアーニ/チェッカレッリ。まわりでは銃撃が激しさをましてゆく。インノチェンツィは、近くで若いパルチザンが機関銃を設置しようとしているのを見る。うまく台座に銃が乗らない。ここでも「畜生め」(mannaggia)の悪態が聞こえてくる。インノチェンツィが立ち上がる。どけ、おれがやると言うと機関銃を固定する。そこに、パルチザンの指揮者がうやってきて、お前は敵の銃座を狙え。これたちは戦車をなんとかするからと告げる。インノチェンツィは、一瞬躊躇するが、命令を受けた兵士がするように「Signorssì」と答えると、引き金を引く。

 おそらくそれは「無害な存在」(innocente)だったソルディ/インノチェンツィが、敵に実害を与える兵士となった瞬間だ。自分から銃座について、誰からも指図されることなく、みずから敵を見定めたところで、作戦の指令を受けたのだ。

 誰の言葉だったのだろうか。誰かに言われた敵ではなく、みずから敵を見つけることが革命なのだ。インノチェンテ(無害)なものがノチェンテ(害をおよぼす)危険な存在に変わる瞬間こそは、イタリア史におけるレジスタンスの始まりであり、たしかにそれはひとつの「革命」だったのかもしれない。

 それにしても、この映画が日本未公開だなんて。せめて日本語版を出してほしいところ。休戦協定がもたらした混乱を、これほどわかりやすく説明してくれるのだから。これは授業で使ってみたいよね。そのためにも、せめてイタリア語字幕付きがあればよいのだけど。
YasujiOshiba

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