YasujiOshiba

群盗荒野を裂くのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

群盗荒野を裂く(1966年製作の映画)
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U次。24-55。これは抜群に面白い。ジャン・マリア・ヴォロンテが演じるチュンチョのキャラクターがよい。理屈ではない。その場その場の感覚で動きながら、死を恐れない。どうせ人は死ぬんだという諦念があるから強い。そして計算も理屈もわからないけれど、そういうものがあることを知っており、知っている人への敬意を忘れない。哀れなものへの憐憫も忘れず、義理堅く、困っている者がいれば助けずにはおかないのだが、衝動的に友人を撃ち殺してしまうこともある。

 おそらくはこのメキシコ人を象徴するようなアンチヒーローは、脚本のフランコ・ソラリスによって脚色されたものなのだろう。ソラリスといえば、サルディニア島の出身で軍人の息子。コロニアリズムへの批判がおそらくその根底にある人。だからポンテコルヴォとは『ゼロ地帯』(1960)、『アルジェの戦い』(1966)、『ケマダの戦い』(1969)に協力しているし、コスタ=ガブラスとは『戒厳令』(1972)や『Hanna K.』(1979)などがあり。『Hanna K.』はジル・クレイバーグがユダヤ人弁護士を演じ、パレスチナのテロリストの弁護をするという話。

 そんな脚本が骨子にかかわっていることを考えれば、ルー・カステル演じるアメリカ人の賞金稼ぎもまた、アメリカのみごとな象徴。マラリアにやられ、義理も人情もなくただ金のために合理的に動く。女に目がないようで後ろ髪をひかれ、現地の人間はハエかアリのように扱うわけだ。それでも、恩義を感じることはあるから、きちんと金で清算する。

 そしてクラウス・キンスキーがあの顔で演じるのがエル・サント。その名の通り「聖人やろう」(エル・サント)で金でも、衝動でもなく、信仰をかかげて戦うわけだ。

 堕落した政府軍と戦う反乱軍は人民の味方。それを率いるのは高潔な英雄エリアス将軍なのだけれど、その反乱軍に武器を売りつけようというチュンチョ/ヴォロンテの群盗は、盗賊でもあり、反乱軍でもある。そこに紛れ込んで、反乱軍の将軍を狙う賞金稼ぎがニーニョと呼ばれるビル/ルー・カステルという設定。

 このルー・カステルは登場シーンから駅の切符売り場で列に並ばない。植民地の住民の列に、植民者である主人が並ぶ必要はないというわけ。そこにセンソ・チヴィーレ(市民的礼節)はない。コロニアリズムが働いているだけ。だからあのラストシーンにつながる。その理由がビル/ルー・カステルにはわからない。だからなぜだと尋ねるのだが、尋ねられたチュンチョが答える。「誰が知るか?」( Quién sabe?)。

この「誰ぞ知るか」あるいは「知ったことか」という表現、イタリア語なら「Chi lo sa?」だろうし英語なら「Who knows?」。 ようするにチュンチョには説明できない。一度はアメリカ野郎のケツをおいかけて大金持ちを楽しもうとするのだが、それは明らかに違う。駅にならぶメキシコ人の列を平気で飛ばすアメリカ野郎は、チュンチョにとって、そいつのおかげで手にした大金でダイナマイト買って、そのダイナマイトでぶっ飛ばす相手なのだということだけはわかっている。そういうわけなのだ。

いやはや見事。実に爽快。人は金持ちになるために生きてるんじゃない。もっと大事なものを助けながら、助けられ、愛でて愛でられながら、いつかどこかで野垂れ死するか、吹き飛ばされるか、ベッドでくたばるか、いずれにせよそれまでの命なのよ。

だからやりたいように、正直に、まっすぐ生きようじゃないか。いやあかっこいい。お馬鹿さんなのだけど、筋が通っている。だからまっすぐ消失点に向かって走ってゆくわけだよな。あのラストシーン。

最高でした。


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