うえびん

桜色の風が咲くのうえびんのレビュー・感想・評価

桜色の風が咲く(2022年製作の映画)
3.3
コミュニケーションとは何か

2022年 松本准平監督作品

視力と聴力を次々と失いながらも大学へ進学、その後、東京大学の教授になった福島智さんとその母・令子さんの物語。

以前、NHKライブラリーで福島智さんのインタビューを聴いたことがある。そこで彼が言われた「生きることはコミュニケーションだ」という言葉が強く印象に残っている。

物語は事実に基づくものだったので、先が読めてしまったけれど、その言葉に込められた思いが何となく想像できた。見えない、聴こえない世界を生きる人にとってのコミュニケーションについて考えさせられた。


『整体ー共鳴から始まるー』(片山洋次郎著)


「南海の帝(てい)を儵(しゅく)とよび、北海の帝を忽(こつ)(ともに瞬間の意)とよぶ。儵と忽があるとき混沌(あらゆる分別のない世界)のところで歓待されたお礼に、
「人には七つの竅(あな)があって、視、聴き、食べ、息したりするが、混沌には何もないので、七つの竅をほってやろう」ということになって、毎日一つずつ、七日目に七つの竅がほり上がったが、混沌は死んでしまった。」(『荘子』応帝王篇)

「混沌」には知覚がない。胎児に近い存在である。世界と完全に連続して共鳴している。世界を秩序づけることなく、あるがままに受け入れる。儵と忽は両方とも時間的な意味、分節を象徴しているが、時間が生まれるということは同時に空間をも生み出すわけだから、世界を秩序づけている存在といえる。

そのような秩序を体現する二人が、混沌と出会ってたいへん感動を覚える。お礼に知覚を与えようとする。赤ちゃんの成長の過程にもこのようなことはいえる。

視えたり、聴こえたりしても「意味」は最初は全くわからないわけで、目の前に何があっても光の文様のようなものである。だが、体全体で周りの人やモノと共鳴している。すべてをありのままに受け容れているわけである。知覚も学習によって与えられるものなのである。

乳幼児が言葉を発するようになる前に、自分の持っているものを人に渡し、また受け取ろうとする時期がある。この「あげる」「もらう」という行為が、言語的コミュニケーションの開始を促す。身体的共鳴は自他が同時に反応するコミュニケーションであるが、言語的コミュニケーションでは行く(あげる)方向と来る(もらう)方向に分裂する。共鳴という自他未分の状態から、自他の分別されたコミュニケーションへと「発達」してしまうと、“共鳴”は言語や知覚に完全に覆われてしまって見えなくなってしまう。

「混沌」は死んでしまったのだろうか。世界は主体と客体に完全に分断されてしまったかのように見えるが、混沌は死んではいないと思うのだ。そのことが見えなくなってしまっただけだ。



福島さんは、自他の分別された言語的コミュニケーションの世界から、自他が同時に反応する身体的共鳴のコミュニケーションの世界へと「逆発達」され、今、混沌の世界を主体的に生きていらっしゃるのかもしれない。

母と息子の指点字。智さんが言語的コミュニケーションと身体的コミュニケーションのあわいを生き始める場面。ここが物語のクライマックスだったと思う。このコミュニケーションを何らかの形で映像化できれば、作品の魅力がもっと増しただろう。
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