【乖離】
人って多かれ少なかれ「もう一人の自分」っているんじゃないだろうか?
別に「ドッペルゲンガー」とか「幽体離脱」とか「イマジナリーフレンド」とかではなくね。
それは「社会の中で生きる上での自分」と「社会の中には存在しない自分」。
もっと言えば「社会から求められる自分」と「それに応えている自分」。
でも、そこには「応えている」という能動的な意味合いも多分に含んでいる。
僕は幼いころに両親が離婚して以来、一種の「対人恐怖症」のような感じになった時期がありました。
絶対に自分の傍にいてくれると信じて疑わなかった母が、ある日突然家を出て行く瞬間を目の当たりにしてから、どれだけ人に心を寄せても「また居なくなるかも・・・」と怖くなってしまうんですね。
でも、学校の友人はそんなこと関係なく接してくれるし、「ホント、dmはおもしれ~よな!」って言ってくれる友達も沢山できた。
勿論僕も彼らのことは大好きだったし、いつも一緒に遊んでいた。
・・・だけど、心のどこかでは100%彼らに寄り添えていない自分にも気が付いていた。
(何かのきっかけで簡単に人は居なくなる・・・)
傍から見れば「考えすぎだよ」って言われるかもしれないし、実際自分もそうだと思ってた。
だからこれは「(そう考える)自分が悪いんだ」ってずっと自分を責めて生きてきた。
大学の時、バイトしていたお店の先輩が大阪に引っ越してしばらくしたころ、「どうしてもdmちゃんに会いたいわ~」って手紙をくれて、その時は仕事を辞めた直後だったこともあり、即決で数日後には大阪に向かいました。
そこで再会した先輩と近所の居酒屋で数時間サシで語り合ったとき、彼女は僕の「心の中」に気が付いていたよとボソッと言い出しました。
最初はそれとなくはぐらかしていましたが、話していくうちに彼女自身も同じような感覚があって、それをずっと一人で抱えて悩んでいたと打ち明けてくれました。
普段は明るくて元気な先輩だと思って接してた僕は、自分だけがそういう気持ちで生きていると思っていたから、同じ気持ちの人からなんだか赦してもらえたような気がして、そしてずっと近くに居ながら彼女の心の内に気が付いてあげることが出来なかったことが悔しくて、二人で居酒屋で大泣きしながら飲みました。
あの時に感じた「独りじゃない」っていう感覚って、生涯あの瞬間だけだったかもしれない。
本当に「生きてていいんだよ」っていう言葉は大袈裟でもオーバーでもなんでもなく、ただただ心が救われる一言だな・・・って。
続きは内容にも触れちゃうので、フィルターかけて「校舎裏の水飲み場」に隠しておきます。