映像でなければ表現できない間合いや空間、余韻、残像--心から消えない残像を描いた素晴らしい作品でした。と同時に娘が父を理解するときがやってきたのだと、時間をかけて紡いだ織物のように、織り上がってはじめて全体像が見えてきた<今>を描いたものでもありました。
ホームビデオに撮った離婚した父カラムと娘ソフィのバカンスの思い出を20年後、父と同い年になった娘が観ることから始まります。
家族の物語というより、もう少し親密に、秘密を知った理解者であったと感じます。
その気づきへの布石が記憶の断片としてちりばめられ、父の歳になったときに全体像がみえ、ストンとすべてがつながる。
それはソフィにとって優しい物語であってほしいと願いました。20年引きずってきたキリムのカーペットに新たな物語を織り込んで。
最後のお別れをしたことのある人なら、鮮やかな残像が浮かび上がってくるかと思います。
ソフィと父カラムを繋ぐものがカメラだったことで、思い起こされたことがあります。
以下、自分語り。
カメラが趣味だった父に真新しい一眼レフ(アナログ)を自慢し、フィルムがまだ入っていないカメラを父に向けたのが最期。ファインダーの中の父は無理に笑顔をつくって「退院したら貸せよ」と振り返って病室を出て行った。心のカメラがシャッターを切った。