緋里阿純

ゴジラ-1.0の緋里阿純のレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
5.0
㊗️第96回アカデミー視覚効果賞受賞🏆おめでとうございます🎉
【最凶のゴジラ像と監督お得意の昭和の世界観を、ハリウッドにも引けを取らない驚異のVFXで描き出し、愚直なまでの反戦メッセージと絶望に立ち向かう人々の姿を描いた美しき人間讃歌。山崎貴監督の集大成にして最高傑作!】
鑑賞は4DXSCREEN版1回とIMAX版4回の計5回。また、小説版も読了済み。

私自身が大のゴジラファンの為、今作に関する詳細なレビューについては、この先尋常ならざる文章量となるので、先ずはじめに私自身が本作について「賛」側である事と、全体的な評価を簡潔に。
また、この先では必然的に国産ゴジラの前作である『シン・ゴジラ(2016)』等の他作品にも、個人的な評価を交えて触れる事になるので悪しからず。

❶ゴジラのビジュアル

まず、何よりも今作のゴジラのビジュアルが素晴らしい!初お披露目の時点で1発で惚れたし、「これぞゴジラ!」と言える王道のフォルムだと思う。VHSで“平成vsシリーズ”に魅了され、“ミレニアムシリーズ”を劇場鑑賞してきた世代としては、正に理想のゴジラがお出しされた。

最早伝説と化している“vsシリーズ”や、鋭利な背鰭と刺々しい皮膚を持つ“ミレニアムシリーズ”の通称ミレゴジ。更には、監督がお気に入りだと明言している“ミレニアムシリーズ”の異色作『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃(2001)』(以下GMK)や監督作『ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007)』の冒頭で描かれた白眼ゴジラと、それぞれのゴジラの良いとこ取りをして、最終的に自身が本作に先立って手掛けていた西武園ゆうえんちのアトラクション『ゴジラ・ザ・ライド』のデザインに近付けてブラッシュアップするという最高の塩梅だったと思う。
着ぐるみでは出来なかったCGならではの表現として、獣脚を採用している点や水中での浮力の為に屈強な下半身をしている点には今作ならではのオリジナリティもある。表皮や背鰭も、よく見ると貝をモチーフにしているように見え、ゴジラが海の生物という点に説得力を持たせている。

また、冒頭での大戸島襲撃の際、まだゴジラになる前の呉爾羅(ゴジラザウルス)状態では、『ジュラシック・パーク(1993)』のT-REXやエメリッヒ版『GODZILLA(1998)』のように、見た目的にも動き的にも前傾姿勢の恐竜的表現を採用しているのも面白い。冒頭でその動きを示す事で、ゴジラとなってからの直立姿勢との対比が際立つ。原爆を喰らった事で、生物として1つ上の次元、監督の言う神の存在へと変貌したという事なのだろう。そうした細かい部分の表現の違いにも拘りが感じられて非常に好感が持てる。

“良いとこ取り”という点については、ゴジラのデザインだけでなく、本作のストーリーについても多分に言える事で、私自身も思う所ではある。なので、そういった面に関して批判する人々の意見もごもっともである。

しかし、庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』によって“新しいゴジラ像”を打ち出して以降、アニメ映画やテレビアニメシリーズでも、とにかく「初代に縛られない、新時代のゴジラを作ろう」という姿勢ばかりが強調され、本来のゴジラが持っていた反核・反戦のメッセージは鳴りを顰め、またゴジラのビジュアルや設定に関しても、ゴジラの亜種と表現した方が適切なのではないかと思われるくらい多種多様になっていってしまった。
とはいえ、【どんな見た目や立場さえも受け入れて、尚も主役として君臨する事が出来る唯一無二のキャラクター】という懐の深さがゴジラの最大の魅力でもあると思うので、「個人的には合わないけど、コレが良いって言う人達も居るんだし、これもまたゴジラ」と割り切ってきた。

※因みに、『シン・ゴジラ』に関しては、ゴジラ第四形態が熱線を吐く際に、下顎が裂けるという演出がどうしても許容し切れず、「ゴジラが進化していく過程を見せるのは革新的で面白いが、これ以降も進化して群体化し、やがては宇宙や神という次元に到達するなんてあり得ない!ゴジラは巨神兵でもエヴァでもない!既に神なんだよ!」という理由が最大のマイナスポイントという思いを抱えている身です(笑)
アニメ映画に関しては、「そもそも話がつまらない」と1作目で離れたし、テレビアニメに関しては「面白いけど、ゴジラじゃなくても成立する話だよなコレ?(最終話ラストのメカゴジラを観て)あ、だからゴジラか!しょうもな!」となった。

だからこそ、やはり心の奥底では「vsシリーズやミレニアムシリーズみたいなカッコいいゴジラが見たい!」と常々思ってきたし、そういった欲望を、少なくともビジュアル的な面では満たしてくれるハリウッドの“モンスター・ヴァース”を鑑賞する事で、溜飲を下げてきた。
しかし、やはり国産ゴジラにこそ、一度原点に立ち返っていただいて、王道の直球勝負をしてもらいたいと思ってきた。
そんな中での本作は、正に砂漠でオアシスに辿り着いたかのような感覚だった。
この一点に関してだけでも、山崎貴監督に盛大に感謝の意を表したい。

そんな、ただでさえ「顔がいい」状態のゴジラが今作で放つ放射熱線の描写も抜群だ。エネルギーのチャージが始まると、尻尾の先端から背鰭がせりあがり、口からは空気を吸い込んで、チェレンコフ光で青く光った背鰭が一斉に引っ込むことで、前方に勢いよく熱線が放たれる。
監督曰く、今作のゴジラは原爆で誕生した経緯から、放射熱線にも原爆のインプロージョン方式の原理を応用したそうだ。自身にも反動でダメージが入る為、連続しては撃てないという諸刃の剣、正に必殺技というのがまた熱い。だからこそ、人間側はそれを逆手に取って作戦を実行する事になる。熱線の直撃だけでなく、爆発の余波すら尋常ならざる被害を齎すというのも、破壊神としての威厳があり申し分ない。

出現前には必ず、深海魚が浮袋を膨張させ、死体として浮かび上がってくるというのも、ゴジラという“破滅”が訪れる前兆として素晴らしく、姿を見せずに不穏な空気が漂い、一気に緊張感が走る。
容赦なく人々を踏み潰し、瓦礫の下敷きにする。熱線の余波で亡くなった人々に関しては、ゴジラにとっては認識すらしていないという無情。レーティングに引っ掛からない範囲内で、キチンと犠牲が描かれている。

更に驚くべきは、そういったゴジラの襲撃シーンを、大戸島の呉爾羅のシーン以外は、全て昼間を舞台に描いている事だ。
誤魔化しの効かない中で、今の日本映画界の技術と少ない制作費で全力で描き切るという潔さに、惜しみない拍手を贈りたい。
一切の逃げが無いからこそ、ゴジラの登場シーンが些か少なくなってしまうのは致し方ないように思う。
作中では特攻を否定しているが、監督はしっかり特攻かましているのだから面白い。

こういった表現の数々を拝めるだけで、既に鑑賞料分のリターンは貰ったと思う。

❷ゴジラの倒し方

初代では、芹沢博士が開発した“オキシジェン・デストロイヤー”という水中の酸素破壊剤によって、博士と共にゴジラは葬られる。しかし、これは人智を超えた超兵器であり、他の作品でも度々ゴジラへの対抗手段として、こういった超兵器が使用されてきた。

だが、本作ではシリーズ史上最も武器の乏しい状態で、人類は神殺しに挑まなければならない。
そこで提案されるのが、フロンガスによってゴジラを深海に急下降させ、水圧による圧死を図るプランと、バルーンによって急上昇させ、減圧によって過負荷を掛けるプランを合わせた“海神作戦”だ。
実際には、フロンガスは水深200mで効力を無くす為、実現不可能なプランらしいが、そこはフィクションとしてご愛嬌。

最終的に、漁船団の助太刀や幻の戦闘機「震電」による特攻と、それによって熱線を吐けなくなったゴジラが、自らの熱線のエネルギーが体内から漏れ出す事によって、その肉体を崩壊させていく事になる。
ゴジラという超常の存在に、人間は知恵と勇気と団結力を用いて、1人の犠牲者も出さずに勝利する。シリーズ史上最もリアリティーのある方法で、最も美しく勝利したと言えるだろう。

❸愚直なまでの反戦メッセージ

山崎貴監督の作風として、「何でも登場人物に台詞で説明させてしまう」「役者にオーバーな演技をさせ過ぎて、演技プランや演技指導が出来ていない」という悪癖がある。今作でもそれは健在で、確かにもっと映像だけでスマートに見せられたはずのシーンは数多く存在する。
主人公の敷島浩一役の神木隆之介をはじめ、ヒロインである典子役の浜辺美波や、戦争少年であると同時に、我々戦争を経験していない現代人と重なる水島役の山田裕貴、やたらと気っ風の良い「新生丸」の船長秋津役の佐々木蔵之介。仕舞いには、憎まれ口なしでも表情の演技だけでほぼ全て持っていってしまえたはずの安藤サクラの抜群の演技力。これだけの実力派の豪華俳優陣を起用しただけに、彼ら本来の演技力だけで十分画と話を保たせる事が可能だったのは間違いないのだから…。

しかし、吉岡秀隆演じる野田博士の反戦メッセージに関してだけは、あれで正解だったと思う。
「この国は、命を粗末に扱い過ぎた。装甲の薄い戦車、供給不足で餓死や病死が大半を占める戦死者数、片道分の燃料だけで脱出装置すら付けない戦闘機での特攻。
だからこそ、今回の作戦では、1人の犠牲者も出したくない。未来を生きる為の戦いをする!」
大雑把だが、全体的なニュアンスとしては、こういった台詞だった。

正直、ベタではあるが目頭が熱くなった。
本作のクライマックスで展開される“海神作戦”の参加者である船員達は、皆戦争を“生き残ってしまった”人々だ。
そして、全員もれなくそれに対する罪悪感を抱えて生きている。「生きて帰れ」と家族や友人達に願われて戦地に赴き、無事生還を果たしたはずの人々が、「死ぬべきだったかもしれない」という罪悪感に苛まれながら生きている。敷島の台詞にある通り、彼らにとっての戦争は未だ終わっていないのだ。

だからこそ、今作のゴジラは、彼らにとって強烈な戦争のメタファーとして描かれており、ゴジラを倒す事で、ようやく彼らにとっての戦争も終わりを告げたのだ。
クライマックスの敬礼は、ゴジラという畏敬の存在を屠った事に対する謝罪であり、同時に戦争の被害者や払われた犠牲に対する鎮魂の意も込められていたように思う。

とはいえ、この愚直なまでの反戦メッセージをより際立たせる為にも、それ以外の全てのシーンや台詞に洗練されたスマートさが必要だったとも思いはするのだが…。
ただ、それを山崎貴監督だけに求めるのは少々違うと思う。例えば、庵野秀明監督は『シン・ゴジラ』にて、過去散々指摘されてきた「人間ドラマの描けなさ」を誤魔化す手段として、人物のバックボーンを極力排した状況劇にする事で上手く逃げおおせた。
過去のシリーズを見ても、演技や台詞云々に関しては、“vsシリーズ”や“ミレニアムシリーズ”も大差ない。山崎貴監督の作風が広く浸透しているからというのもあると思うのだが、「やはり山崎貴」という責められ方は少々同情する。

❹音楽の使い方

伊福部昭さんの楽曲は勿論の事、佐藤直紀さんによる楽曲の数々も素晴らしく、また掛かるタイミングも神懸っていた。音楽の良さだけでも、先述した台詞や演技に関するマイナスポイントを大幅に補っている。特に伊福部楽曲は、今作の為に再録までし、シーンに合うよう微妙にテンポ感まで調整したらしく、そういった面でも気合いの入れようが凄まじい。

❺ラストシーンの解釈による、本作の受け止め方の違い。

これは、典子の奇跡的な生還についてだ。ライト層とファン層とで、受け止め方に180°の違いがある。
一見すると、ハッピーエンドと受け取れるし、そこで賛否が分かれもする。「安易なハッピーエンドにガッカリした」と。
私自身、ゴジラ銀座襲撃時に浩一を守る為犠牲になるという描かれ方の容赦なさに「やってくれたよ、山崎監督!」とテンションが上がりもしたし、海神作戦決行当日に電報が届いた瞬間、ラストが読めてしまい少々落胆もした。
また、初見時は首のアザがアザには見えず、縛り残しの髪の毛の付け根か、治療用の管が刺されて肌色のテーピングで固定されているように見えて気付かなかった。

「まぁ、山崎監督は感動作にも定評があるから、監督のファンやファミリー層に向けての配慮だろう。とはいえ、あの中盤での容赦ない絶望感を台無しにしてしまったのは勿体無い事したな。それに、いくら何でも典子さんの身体綺麗過ぎない?あと、せっかくなんだから明子もちゃんと輪に加えてあげなよ」としか思わなかった。
その後にGMKよろしく砕け散った細胞の破片からゴジラが復活するという、監督の「だって好きなんだもん♪」という無邪気な声が聞こえてきそうな分かりやすいオマージュまであり、完全にそちらに気を取られていた。公開前に、わざわざ金子修介監督まで招いてのGMKのリバイバル上映までしたくらいだから、本当にあの作品が好きなのだなと思ったし、コレがあるからこそのリバイバル上映だったのだと思っていた。

数々の違和感についても、「まぁ、ズタボロの状態じゃ感動の再開にはノイズになるし、典子の台詞は浩一としか共有出来ない文脈だからあれでいいのか」と納得していた。正直、この時点では山崎監督を舐めてもいた。

しかし、2度目の鑑賞で、病室での明子の表情や態度についても違和感が生じた。これは、明子役の永谷咲笑ちゃんの演技力にも脱帽だ。意図的か偶然かは分からないが、あれが最高の演技になったのは間違いない。

とはいえ、その時点でもまだ違和感を覚える箇所が増えたくらいで、解答には辿り着けていなかった。合点が行ったのは、他の方のレビューやXでの考察ツイートのおかげである。それに気付いた瞬間、背筋がゾッとしたし、そこで初めて本作を「怖い」と認識した。これだけ熱く語っておきながら、自力で回答に辿り着けなかった点が悔やまれる(笑)

それは、シリーズファンにはお馴染みの【ゴジラ細胞(G細胞)】についてだ。
ゴジラ細胞の設定は、『ゴジラVSビオランテ(1989)』から取り入れられた設定で、ゴジラの驚異的な生命力や再生力を利用して、そこに薔薇と人間の細胞を融合させ、“永遠の命を持つ植物を作る”という目的で白神博士が用いた。そうして誕生するのが、ビオランテである。

その後も『ゴジラVSスペースゴジラ(1994)』では、宇宙に渡ったモスラに付着した細胞がキッカケで、ブラックホール内で結晶生物と混ざり合った結果、スペースゴジラが誕生した。

『ゴジラ2000ミレニアム(1999)』では、細胞内の再生力を司る物質に“オルガナイザーG1(以下OG1)”という新しい固有名詞が付与され、更に「ゴジラ以外の生命体では制御出来ない」という設定も追加されてきた。それを摂取して肉体の復活を目論んだのが、宇宙生物ミレニアンであり、誕生したのが敵怪獣のオルガである。
実は、私が本作のラストのトリックに気付けなかったのは、このOG1の設定があるからでもある。「ゴジラ以外は制御出来ない、怪獣レベルでようやく物になるような驚異の細胞が、たかが人間如きに付着し融合したら、即座に宿主は乗っ取られて死亡するだろ?現にミレニアンは即座にオルガに変貌したんだし」と。

だが、思い返してみれば、本作のゴジラはミレニアムゴジラより耐久性に劣る。
内側からの攻撃に特に弱く、高雄の砲撃でもダメージを喰らい、銀座襲撃の際には、受けた傷の部分は他の箇所とは色味の違う不完全な再生状態だった。それはつまり、ゴジラ細胞の再生力が過去作より低いという事だ。
となると、典子がまだ肉体や自我を保てている事にも説明がつくし、明子は本能的に何かを察して、懐いていたはずの典子に近寄らなかったのではないかと考える事も出来る。

ところで、私自信が引っかかっているもう一つのシーンについての考察も付け加えておきたい。
それは、海神作戦前夜、浩一が特攻覚悟の心理状態で明子を迎えに行ったシーン。
自宅にて明子から絵を渡された際に、突然明子は泣き出してしまう。浩一も訳が分からずなだめるが、もしかすると浩一が典子と同じく帰らぬ人となるかも知れない事を敏感に感じ取って涙を流したのかもしれないし、そう受け取るのが普通だろう。

この“子供ならではの敏感さ”が典子について働いていた物だと考えるとどうだろう?
翌朝、明子が澄子さんに面倒を見てもらっている敷島宅に、電報が届く。それが何故このタイミングなのかを考えてみると面白い。

つまり、前日まで典子は生死不明の重体、もしくは昏睡状態だったのではないかという事だ。だが、典子がゴジラ細胞と融合した事で、突如劇的な回復を見せ、意識を取り戻した。明子が突然泣き出したあの瞬間に。あの瞬間、明子は離れた場所にいる典子が“私の知る母ではない存在”になってしまった事を感じ取っていたとしたら?と考えると、あの涙の意味が違ってくる。

※実際には、小説版に目を通すとこのシーンでは敷島が明子に「俺はお前の父ちゃんだよ」と父親になる覚悟を伝え、明子は敷島が帰らない事を悟って涙を流すというものだった。だが、子役の演技を活かす為か、あれほどまでに意味深なシーンや表情になったというのは、彼女の演技力の凄まじさを物語っている。

❻ゴジラの放射能汚染について
今作では、敷島をはじめに多くの人間がゴジラと至近距離で接している。しかし、彼らが被曝によって身体に異常を来す描写はない。人によっては、その部分が描かれていない事に不満を持ち、批判している場合もある。

しかし、ゴジラの拘り抜いた描写からも分かる通り、山崎監督は「分かっている側」の人間だ。銀座襲撃後の荒地で政府の調査員がガイガー計器で放射能濃度を計測し、絶望的だと理解している描写まであったのだから。
GHQの報告内容や政府の調査員の反応から、時代的に見て政府間では放射能の恐怖は認知されているが、一般にはまだまだ認知されていないのだと思う。

つまり、敷島達はこの先決して長生きは出来ない事を映像だけで観客にキチンと示しているのだ。今作は一見するとハッピーエンドだが、典子の首のアザは勿論、目に見えない部分も徹底してバッドエンドのスタイルを貫いている。
それはつまり、山崎監督からの「描いてないけど、分かりますよね?」という観客への信頼の証だろう。実は、説明していない部分にこそ、今作の本質があるのだ。

面白いのは、今作を「説明し過ぎ」として批判する人達の中にも、こういった部分に分かりやすい説明を求める人が居るのだ。結局、分かりやすく説明されなければ分からないのだから皮肉である。

❼まとめ

そんな絶望感漂うラストを見届けて、改めて本作のキャッチコピーが生きてくる。

“生きて、抗え”

これはつまり、この先も続くであろう人類とゴジラという“神”であり、“戦争”の具現化であり、核を弄んだ人類の“被害者”である存在との戦いを、両者共に生きて抗い続けろという事なのだろう。

色々不備も目立つ作品である事は否定しない。しかし、それでもやはり令和初ゴジラが、ハリウッドにも引けを取らない驚異のVFXで描かれ、愚直なまでの誠実な反戦メッセージを孕んで世に放たれた事が嬉しくて堪らない。
久々の国産ゴジラが、12月に公開を控えたアメリカをはじめ、これから世界を蹂躙していくのだと思うと、ワクワクが止まらない!!

山崎貴監督、お疲れ様です!ありがとうございました!!
緋里阿純

緋里阿純