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夏の終わりに願うことのkuuのレビュー・感想・評価

夏の終わりに願うこと(2023年製作の映画)
3.6
『夏の終わりに願うこと』
原題 Totem
製作年 2023年。上映時間 95分。
映倫区分 G
メキシコの新鋭リラ・アビレス監督が、離れて暮らす父と再会した少女の揺れ動く心をみずみずしく描き、世界各地の映画祭で注目を集めたメキシコ・デンマーク・フランス合作人間ドラマ。
主演は映画初出演のナイマ・センティエス。

ある夏の1日。
7歳の少女ソルは大好きな父トナの誕生日パーティに参加するため、母と一緒に祖父の家を訪れる。
病気で療養中の父と久々に会えることを無邪気に喜ぶソルだったが、身体を休めていることを理由になかなか会わせてもらえない。
従姉妹たちと遊びまわることも、大人たちの話し合いに加わることもできず、いらだちや不安を募らせていく。
ようやく父との再会を果たしたソルは、それまで抱えていた思いがあふれ、新たな感情を知ることになる。

新鋭リラ・アビレス監督の魂の探求、考究、ほんでもって心に響くが悲壮感はない映画今作品のすべてが、運と偶然は良い意味でも悪い意味でも魔法をかけることができるちゅう運命にあるよう。
なんでも2018年のデビュー作は、メキシコの高級ホテルで働くメイドが、世界で自分の居場所を見つけようとする物語『The Chambermaid』だそうだが、今作品はそれにに続く長編第2作やそうです。
今作品では、瀕死の芸術家トナ(マテオ・ガルシア)の誕生日を支え祝うために、さまざまな女性家族が登場する。
トナは癌に冒され(以前の母親と同様、父親は咽頭癌の生還者)、7歳の娘ソル(ナインマ・センティエス)は生と死の謎を解き明かす必要がある。
そのために失敗した彼女は、母親(イアズア・ラリオス)と、誕生日パーティの主催者である2人の叔母、ヌリア(モンセラット・マラニョン)とアレハンドラ(マリソル・ガセ)が用意した大家族パーティ(おそらくトナにとって最後の、そしてお別れのパーティ)に参加することに。。。
母と娘の短いトイレシーンの後、舞台はトナの家へと移る。
好奇心旺盛なソルは、我々がこの居住地を知るためのイントロダクションの役割を果たすが(4:3のアスペクト比で、観てる側はイベントの記録者として参加モードになる)、この少女がこの映画を支配することはないかな。
ソルの目に映るアクションはほとんどない(彼女がスマートフォンに音声アプリで『いつ世界が終わるか』と命令するのは別として)。
今作品はほとんど群像劇で、誰もが幸せな顔をしているちゅうストレスのもとで、日常の緊張が拡大して見えるような断片が組み合わされている。
例えば、叔母ヌリアは誕生日ケーキの準備に頭を悩ませるが、彼女の本当の心配は、(化学療法を拒否した)兄を助けるために十分なことができないこと。
トナの父ロベルト(アルベルト・アマドール)は、心理療法士であると同時に、パーティーの準備において不愉快な存在。
白熱した口論がない分、今作品が受け入れたい完璧に設定された周囲の雰囲気にその座を譲っている。
絵画から鍋やフライパンまで、家具には明確な役割が見え隠れしてたかな。
家の悪霊を追い払う降霊術のような儀式では、家の壁も生きていることがある。
トナは映画の前半に登場しいひん。
彼が登場しないことで、彼の親族たちが悩みを打ち明ける場が増える。
しかし、パーティーの準備に関する小規模な悩みは、物語を前進させるためには、解読が簡単すぎ、テーマ的にも閉ざされすぎているように思えなくはない。
イベントそのもの(映画の後半部分)は、派手さと、計算され尽くした本物の悲しみの瞬間と、ピエロのオペラナンバーへの歓喜の融合やった。
また、この舞台全体が、トナが同席する意図的でない葬式と追憶の場にも見える。
今作品が意図的に誘うことのないブラックコメディの要素は、トナと彼のパートナー、そして娘(この2人が一緒に登場するのは映画のシーンだけ)、酒を飲んで云い争う2人の姉妹、どちらが主導権を握っているのか、盆栽に鳩を近づけさせないようにする必要のある父親。
それにもかかわらず、暖かい光の中に設定された上記のシーンやと、幸せになるためのパーティーという建前よりも多くの意味を伝えていた。
ライラ・アビレスは、日常の微小な状況を描写することに自信を持っている。
観る側が大切に見守る小さなトーテムは、映画の上映時間中に崩れてしまいそうになることがあるが、今作品はそれを完璧に成し遂げることができる。
しかし、映画の中で目隠しをされた霊を追うプロフェッショナルのように、この比較的テンポの良い作品は、まだその秘密をあまり明かさない。
今作品は間違いなく直接的で、明らかに共感でき、関連性があるが、それでも意図的に感情的に不透明な映画と云えるかな。
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