Habby中野

ゴッドランド/GODLANDのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

ゴッドランド/GODLAND(2022年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

まるで(まるで?)古びたフィルム上映のように画面に走るノイズ。しかしそれは映画内の時代に合わせた演出ではない。カメラは、物語から逸れて宙を舞い、時を先回りしあるいは後に戻り、雨水にレンズを濡らし、旅の一行が去るのを草原の中に佇んで見つめ、誰も見ぬ火山の噴火を執拗に捉え、執拗に海に溺れる。スクリーンは、景色の広大さを持て余すアカデミーサイズに切り取られる。それはまるで(まるで)映画の中にカメラが存在し、レンズがあり、ズームリングがあり、パンハンドルがあり、記録機能があり、またその外側にスクリーンがあることを主張するかのような態度で─でも、そこに撮影者の存在はなぜか感じられない。カメラだけがそこにあるかのよう。
尊大な自然に、大地にただ飲まれる、朽ちゆく肉、砂と化す骨。溶岩が冷えて固まり大地に変わるように、命はすべて無に帰する。死をも取り込む自然の前で、人は愚かに短く存在するしかない。そしてその愚かさゆえに神を必要とし、信じ、仕え、祈るが、愚かにも裏切りもする。この映画において聖職者が最も愚かに映るのは、ただ物語の主題である以上の意味を、その外側にまで漂わせている。奇妙なサイズに切り取られた世界にはその切り取られる以前の外側があり、そのカメラにも、スクリーンにも外側がある。循環、あるいは回遊する世界。愚かな聖職者がシャッターを切る(厳密にはシャッターを切るではないけれど)姿を、映画のカメラは捉える。人々の知らない罪を、朽ちてゆく命を撮る、その眼差しはまるで神のようじゃないか。
過去も未来もなく、永遠に瞬間で─瞬間は永遠。カメラは瞬間を捉える枠を作り、それは同時にその外側をも作る。その外側には人がいて、カメラがあり、そのシャッターを切る。最終盤にカメラに向かう人々の姿─鋭い瞳を向けるアンナ、撮影を拒否されたラグナル、撮影者本人であるルーカス、通訳者、その他旅で出会った人々─はしかし、ルーカスによる湿板写真ではなく、映画のカメラが撮った映像だ。そして最後に映し出される、無感情な景色と、時間の生む物語。そうか、これが真に物語だ。だからこそ(だからこそ?)人は神を信じる。人を救ってきたのは、人の物語─人生の、そして歴史の、政治の─ではなく、神の語る物語だ。7枚の写真から着想を得た物語、という設定はそのこと自体がフィクションであるために外側に物語を作っている。その外側の我々。そしてさらにこの世界の外側にある物語。それはまだ人を救う力を持ち得るのだろうか。
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