きらきら武士

ゴッドランド/GODLANDのきらきら武士のレビュー・感想・評価

ゴッドランド/GODLAND(2022年製作の映画)
4.5
アイスランドの荒涼とした大自然。
昔から死ぬ前に一度行ってみたい国の筆頭だから、大いに期待して観に行ったが、期待を上回る内容で興奮した。ああ、ますます憧れが高まる。行かねばならない。

19世紀後半、デンマークから派遣された牧師ルーカスがアイスランドの大自然の圧倒的な力に心身ともにすり潰されていく。その様が緻密なカメラワークで冷徹に映し出される。ルーカスはじめ人間たちの小ささ。それとは対照的に描かれるアイスランドの自然の壮大な美しさ。険しさ。

映画には様々な「対比」の構造が散りばめられている。アイスランドとデンマーク、支配者と被支配者。知識人である牧師ルーカスと現地人ガイドのラグナル。人物は最小限に整理されセリフも限定的。人間関係は単純化され、物語展開を効果的にするとともに神話的・幻想的雰囲気を醸す。自然と人間の関係性にも触れるが、大自然はただただ畏怖すべき圧倒的な、超越した存在である。神のごとき自然を前に、人間同士の「対比」は矮小化され、差異のもつれから生じる人間ドラマ(≒コミュニケーション不全)の果てには自然の中に同化することが示される。生と死の循環。そして対立する牧師ルーカスと現地人ラグナルも、究極的に「一つ」のものなのだ。

「最後には、死こそが私たちを結びつける唯一のものなのかもしれない」
監督は述べている。

映画の邦画タイトル「ゴッドランド」が、大自然に神を見る日本の文化に響いていて、個人的に気に入っている。ちなみに原題タイトルにもアイスランド語とデンマーク語の「対比」があり、更にはアイスランド語タイトルの中にも「対比」があるという実に凝った構造。アイスランド語のタイトル「volaða land」(惨めで哀れな土地)は随分と自虐的だが、元はアイスランドの国民的詩人がデンマークからアイスランドへ戻った際に体験した過酷な冬を憎んで書いた悪罵の詩、そのタイトルだという。当時のアイスランドの人々に非難の嵐を巻き起こした。そのため詩人は追加でアイスランドの自然の素晴らしさと美しさを称える反詩を書く羽目になった。つまり、対となる「素晴らしく美しい土地」という賛美の詩がダブルミーニングで掛かっている。

撮影スタイルが特徴的で目を引く。
スクリーンは1.33:1のアスペクト比。フレームの四隅を丸くすることで、女性的な柔らかさや昔の写真のような古風な印象を与える。また、観客の視線を中央に集中させる効果がある。写したいものを中心に据えると安定感があり、構図が決まりやすい。後半の村のシーンで人物を中心に映し出すと、人物が絵画的かつアイコニックな雰囲気を醸し出す。際立つ人物の表情。
前半の大自然を中心としたシーンでは、風景を引きで取り、画面を横にパンしながら横幅の狭さを逆手に取って自然の壮大さを強調している。また、旅の横移動を視覚的に説明しつつ、滝のシーンなど時折縦の動きを入れて画面にリズムをつけている。冒頭の船上のシーンの縦揺れには酔いそうになったが(あれも旅の状況と人物の内面を表していて巧い)。前半の終わりには360°ぐるりと「世界」を撮影。
後半の教会建設シーンでは、村という定点に場所を据え、木材という自然にはない直線の物体が縦に縦に組み上げられていき、「文明」が象徴的に表現される(そして直後にそれを見下ろすかのように険しい巨大な岩山のカット)。逆に結婚式シーンでは、ここでもぐるり360°。特徴的なフレームを活かしながら横縦の動きとリズム、象徴や比喩を交えた空間の創出が巧みだ。

主人公の牧師ルーカス。
実に情けない男だ。思慮無し、コミュ力なし、未熟、ひ弱、陰キャ。お前は俺か。冒頭で司教から「気候に馴染め。現地の人々と交流しろ。さもなくばミッションは失敗するぞ。」と忠告されるも、それを華麗にスルーして自滅。情けない。しかし、どうやら私はそういう「情けない男」が大好物らしい。最近観た『π』や『宇宙探索編集部』も記憶に新しい。

映画は「7枚の古い写真にインスパイアされた」というイントロダクションから、ルーカスに湿板写真機一式の大荷物を背負わせ、「撮影旅行」をさせる。この設定は、彼の人物描写や物語進行に効果的に機能し、観客の意識を撮影対象へとスムーズに向かわせる。写真機によって補足されるルーカス像は、文明人として世界を撮影しようと意気込む若者。写真機の三脚のようにヒョロヒョロ細く、痩せており不安定で、他の荷物は他人任せのお気楽さん。また、彼が「見えるもの」に執着していることが表れている。写真機の遮光布を被り周囲を遮断し内にこもり、自分の撮りたいものを撮りたい角度から切り取る。この写真機や物語を通して明らかになるのは、彼に神の声を聴こうとする意志は乏しく、また現地の人々とも交流する意志が無いということである。

ルーカスを世話する姉妹、アンナとイーダ。
彼女たちとの交流は、孤独なルーカスにとって唯一の安らぎだ。デンマークから移住した一家で、デンマーク語を話す彼女たちに、ルーカスは親しみを持つ。特に姉のアンナはアイスランドを好まず、ルーカスと次第に親密になっていく。

一方で、妹のイーダ。彼女はアイスランドとデンマークの両方に自然体で接し、心が軽やかで伸びやかだ。無邪気で可愛らしい。ルーカスと現地ガイドのラグナルの間で通訳も務める彼女は、映画中で対比と対立が交錯する中、唯一「つなぐもの」として機能する。最後のシーンでの彼女の訪問と語りかけは、彼女がこの大地に根付き、生死の循環の中で牧師と世界が一体化している希望を示唆している。

蛇足かもしれないが、イーダ役のイーダ・メッキン・フリンスドッティルは、フリーヌル・パルマソン監督の実の娘である。映画における父と娘、姉と妹の関係の解像度の高さは、監督の個人的な体験が反映されているのかもしれない。特に「1年後」のシーンでは、「イーダ」が実際に1年分ぐらい成長していて、その変化が印象的だ。

また、映画で自然に還っていく馬は、監督の父親の馬で、家の近所で1年以上かけて撮影された。このタイムラプスシーンは、ピーター・グリーナウェイの『ZOO』を思わせるし、仏教的な諸行無常観や「九相図」なんかも想起させる。しかし、本作においては、映画に散りばめられた人間界の「対比」「対立」が無化され、大自然(≒神)の元への「大いなる回帰」として描かれている、というのが個人的に感じた所だ。その観点からはエンドロールの「対比」は少々皮肉が効きすぎているかもしれないが、結局のところ人間は些細な差異であろうと、目の前の「今」を懸命に生きるしかないという現実に立ち戻るのだ。

アイスランドの厳しい自然環境の中で、人間の生死、人間同士を分かつものや結びつけるものを深く掘り下げた傑作である。
アイスランドの音楽、シガー・ロスに当たらずとも遠からず的な、映画の劇伴「空間サウンド」も映画の雰囲気にはまっている。ああ、アイスランドに本当に行かねばならない。期待を大幅に超えたため、二度観に行った。
評価は4.5点。後でちょっと上げるかも。

#2024 #32 #33
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