ジェニファー

落下の解剖学のジェニファーのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

劇的な何かを求める観客を皮肉る映画

この映画を見た時、オスカー効果か平日の夕方なのに結構客入りが良かった。
僕の隣に、おそらく普段あまり映画を見ないであろうギャル2人がポップコーンとホットドッグ、各種ドリンクを携えて迷いながら着席したのだが、映画が終わり明るくなってから第一声が「モヤっとしたー」だった。
それ!!!この映画が言いたかったのはそれだ!!!!
ありがとうダブルギャル。

途中まではしっかり法廷モノで、検察や弁護人がそれぞれ「そうなってほしい」という筋書きに則った"真実"をぶつけ合い、二転三転する展開に正直、ワクワクする。ところがそれは母サンドラの「妻(ないしは1人の女性)」としての顔が見え始めるあたりから、様子が変わってくる。『マリッジ・ストーリー』を思い出さずにはいられなかった。

観客と傍聴人を重ねる演出は直近で見た「ボーはおそれている」にもあった。
今作では、サンドラが検察側の物的証拠によって(膨らんだ想像によって)ほぼ有罪だろうという雰囲気になるまでの裁判の傍聴人はほぼ満席だった。しかし、その後に息子ダニエルが証言台に立つ回では傍聴人はたった2人。
(子供の証言に期待していないからか、ほぼ有罪、という結論で世論が固まったからなのか)
つまりこの傍聴人たちは、被疑者母子にとっては重大な裁判をエンタメとして消費していたのかもしれない。
(その他にも、テレビでこのニュースを取り上げた時にコメンテーターの1人が「妻が殺していたという結論になる方が面白いよね」的なことをコメントしている。)
この映画では、無罪となったことだけが報道されて裁判が終わる。
結局、どうやって自殺したのか、なぜ無罪になったのかは描かれない。そこがギャルたちの言う「モヤっと」ポイントなのだろう。
裁判が終わった後、サンドラは「裁判が終わったら何か変化があるのではと思ったが、ただ終わっただけだった」と言った。それに対して(元彼の)弁護人ヴァンサンは「期待しすぎたのかも知れないね」という。
前のシーンで2人は少しだけ良い雰囲気になり、このシーンで2人は初めてボディタッチがあるが、それがロマンスになることはなかった。

そう考えると、この判決に真に満足できたのは、ダニエルだけだったのではないか。

結局のところ、サンドラの期待は「自分の言い分が正しいと証明されること」であり、その性格がサミュエルを追い詰めたし、物証に変わって裁判で露呈するシーンもあった。「夫婦とはカオスだ」ともっともらしく演説するシーンがあったが、あれはつまるところサンドラのエゴに過ぎない。(息子のハンディキャップに対する想いを吐露した長台詞は胸にくるものがあったが、その後のシーンとコントラストをつけるために意図的に用意されたシーンだったと考えるとしてやられた感がある)
彼女の言い分は裁判で糾弾され窮地に陥るも、証人となったダニエルによって回避される。

ダニエルの目的は大凡他者からは「母を擁護すること」だと思われていた。
結果としてそれは誤りで、ダニエルは母の気難しさも、父が死ぬほど苦しんでいることも知っていた。
だからこそ、他人の想像だけで決まった一面的な真実を否定したいと思ったのだろう。
その判決がテレビの前で口を開けてエンタメを待っている消費者たちにとっては「モヤっと」する結末だったことは想像に難くないが、それは結果として母を守る事でもあった。(マスコミは無罪となったサンドラを讃えていたが…調子のいい奴らめ…)
ダニエルは全盲の少年だが、何かを見据えるようなカットが繰り返されていたのが印象的だった。
それどころか、見えてないはずなのにダニエル視点のカットがあったりするのもユニークで、ついつい意図を探ってしまう。
膨大な形式ばったセリフで大人たちが議論を交わす法廷とは対照的に、無言でただ何かを確実に"観ている"ダニエルこそが、この映画を支配する存在だったに違いない。

以下は僕がこの映画からもらったお土産
イメージだけで作られた一面的な先入観や印象や物証でコロコロと左右され、消費者はそれをエンタメとして摂取する。
挙句消費者たちが求めるのはシロかクロかの二元論や悪人が司法で裁かれる事。つまり「わかりやすくて気持ちいい結末」である。
この裁判とドライブするように、この映画は裁判の結末や母と弁護士の関係に気持ちいい結末を用意しなかった。超消費社会において、消費者が「そうなってほしい」と渇望するわかりやすい劇的な結末をエンタメとして消費することへの皮肉だと思った。

ワンちゃん(スヌープ)最高でしたね。白目剥いた時が一番ハラハラしたな。ずっと元気でいてほしい。
ジェニファー

ジェニファー