あおは

落下の解剖学のあおはのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

解剖学というくらいだから医学的な技術をもって事件と向き合い、そのなかで色々な人の思惑が見えてくる感じのお話かと思えば、テーマに全振りしたような作品で、家と法廷の会話劇で終わり、そこが好みが分かれるところだろうなと思った。

テニスボールが階段をトントンと落ちてくるカットから始まり、女性作家サンドラに女学生が取材していて50セントのP.I.M.Pが爆音で流れているシーンが映し出される。不審感や嫌悪感を少し煽られた。

このシーンにも今作で自分が考えたい2つのテーマが提示されていた。

まず、セリフにもあったとおり分かりやすいところでいけば、小説と実体験という対比。
言い換えれば、小説は想像で実体験は事実。今作では想像と事実が対立するシーンがとても多く、とくに裁判中はそれぞれがそれぞれの想像を押しつけ、円滑に進んでいかない。
このように、事実は存在したとしても、それを自らの目で確認するまで事実として信じられない、またはその事実を確実に裏付ける証拠がない限り信じられないのが人だから、サンドラの弁護士のセリフにもあったように、事実かどうかよりも人の目にどう映るかのほうが重要というセリフは哀しいけれど響いてきた。
切り取って提出された情報でサンドラが追い込まれるシーンもあり、これはとても現代的な状況で、週刊誌やネットの炎上など、世間の批判の目に晒されている人や情報も、それがすべてではないだろうなと感じ、1人でも多く、だからまずは自分が、そういった視点を持とうと思った。
断片的な情報だけでサンドラをバイセクシャルだと決めつけたり、不倫をしていたと言い放ったり、サンドラに対して想像だけで話しているところが特に裁判中はとても多く、事実が分からないから仕方のないことだけれど、想像で話すのが危ないのではなく、想像を事実だと思い込んで話すのが危ないのだなと思った。
前日に喧嘩をしたから翌日も喧嘩をしたと考えるのは危険という指摘にはとても納得させられた。
この想像と事実というテーマにおいて、とても印象的なカットがあった。それは裁判の傍聴席を映すカットで、色々な人種の人がいて、それぞれがコソコソと囁きあって噂話をしているところ。これも想像で話していることで、大衆のなかでは特に尾ひれがついて噂話が1人歩きすることがとても多いように感じられるから、とても印象に残った。

2つ目は、1つ目と似ているけれど、自分の持っているものが伝わらないこと。
最初のシーンも爆音で流れる音楽のせいで2人はコミュニケーションを取ることができず、お開きになっている。裁判でもサンドラは自分が持っている事実を主張するもなかなか信じてもらえず追い込まれていく。
サンドラはドイツ人だが夫はフランス人で2人はフランスに住んでいるから、裁判ももちろんフランス語で進んでいく。サンドラが話せるのはドイツ語と英語で、フランス語は話せるけれどフランスの人には及ばない。だから裁判中にもうまく言葉が出てこず英語で話すシーンもあり、自分の持っている言語、つまりそれが事実、をうまく伝えられないことを表現しているのかなと思った。
また、裁判中に目立ったのがサンドラが話している途中で口を挟まれるところ。これは何度も見られ、やはり自分が伝えようとしている事実を遮られている。観ていてフラストレーションが溜まる演出だった。
ここには伝わらないと同時に押し付けるというテーマもあり、自分のことばかり考えて相手に押し付けてしまうからうまくいかなくなる難しさから、結婚生活が取り上げられていたのだなと思った。
裁判は特に、正しさを決めること、責任を負う人を決めることで、自分を正しいと主張するために他人を否定し、責任転嫁をしていく。
これがサンドラ夫婦の結婚生活にも現れていて、自分勝手に自分のことしか考えられなくなり、押しつけて相手のせいにして批判して責任転嫁をし合うから愛も消えていく。もう少しお互いに歩み寄ることができれば、お互いのことをもう少し考えることができればヒートアップせずに静まりそうとは想ったけれど、2人ともそれぞれ不満を抱えて暮らしてきて我慢してきたわけだから、それも難しいのかなと感じた。このシーンでは自分はサンドラに嫌悪感を抱いた。夫のフランスで暮らしているとはいえ、家庭のことの大部分を夫に任せて、夫の時間を奪い、それを彼自身のせいだと決めつけるのは良くないなと思った。

お金は幸せを生まない。でも地下鉄で泣くより車で泣くほうがいい。

サンドラが車の中で言う何気ないセリフだけれど、どこか皮肉がきいているというか、オシャレなセリフだなと思い印象に残った。

裁判で勝ち無罪が確定したあと、サンドラは裁判の終わりに見返りを期待しすぎたから、特に何もないと言っていた。
これはおそらく結婚生活やその他の人間関係にも言えることで、人に勝手に期待をするから人を責めて、期待した自分を被害者と思ってしまう。
人を責めるか自分を被害者だと主張するかによって、自身の正しさを確率しようとするから、そもそも人に期待することをしなければ、逆にその人のために何をしようと考えていればもっと幸せな関係をたくさん築けるのではないかなと思った。

最後の作りは巧いなと思った。
ダニエルの証言ひとつで裁判がひっくり返りサンドラは無罪になる。決定的なことを明らかにしたのは間違いないけれど、ここで何を言ったのかは分からない。
つまり想像の余地を残されたということ。
事実と想像。
ダニエルがサンドラを無罪にした証言という事実があるのに対して、観客ができるのは想像のみ。
サンドラがテレビに映っているのをみているダニエルの泣き笑いのような表情やそれまでの展開からは、母親のためにダニエルが嘘をついたようにも思えるし、スヌープのことで何かにダニエルが気づいたとすれば、そうでないようにも思える。
難しいけれど、自分はサンドラは無罪なのだろうなと思った。なんとなく有罪のような気がするから無罪と感じたし、エンドロールに入る前にスヌープが寄り添って寝るのが事実だと思った。

これも想像だけれど。

まさか題名から医学ミステリを想像してしまうことも、想像と事実が異なるということなのか……!?
あおは

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