耶馬英彦

愛にイナズマの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

愛にイナズマ(2023年製作の映画)
4.5
 石井裕也監督の前作「月」は、辺見庸原作の実話ベースの作品で、テーマも雰囲気もかなり重かった。10月13日の公開だったから、本作品の公開の2週間前である。おそらく2作品を並行して編集作業をしていたのではないかと思う。「月」が重すぎたので、石井監督は本作品で自身の精神バランスを整えていたのかもしれない。映画の編集は昼夜を忘れるほどの作業興奮をもたらすが、同時にかなりの負担を与えるに違いない。

 本作品は石井監督のオリジナル脚本で、尾野真千子が主演した「茜色に焼かれる」に似た雰囲気がある。それは、人は多かれ少なかれ人間関係の中で演技をしているという世界観である。それと、生きていく上ではどうしても金が必要だという、忌々しさやもどかしさみたいな感覚だ。不条理と言ってもいい。

 前半のMEGUMIと三浦貴大の人物造形がやや類型的だが、世の中の嫌な感じを出すために敢えてそうしたのだろう。三浦貴大は、底抜けの善人から本作品の底意地の悪い小物まで、幅広く演じる。本作品のパターナリズムの助監督とMEGUMIのプロデューサーは、主人公折村花子が演技を捨てて本当のことを言うための反面教師の役割だ。大抵の場合は嫌な連中の圧力に負けてぺしゃんこになってしまうところを、そうならないための人物として、窪田正孝の正夫を設定する。この辺りの立体的な脚本は流石に石井監督である。

 本音で生きていくのは高いところから翔ぶのと同じで、勇気がいる。翔ぶためには助走も必要だ。花子は自分の幼い頃の記憶まで遡って、力を溜めようとする。実家とその周辺が舞台の後半の展開は、螺旋階段のようにリフレインしながら盛り上がっていく。松岡茉優の演技は振り切っていて、とても見応えがある。
 石井監督の作品ではおなじみの植松壮亮が演じた長男は、地球の長い歴史から見たら、人間の存在なんて一瞬だと、そんなふうに語るくせに、高級車を自慢するという矛盾を抱えている。ある意味で貧乏人の典型だ。妹が翔ぼうとしているのを感じて、自分も翔ばなければならないのではないかと考えはじめる。若葉竜也は父親の安定剤の役割を果たしていて、佐藤浩市は深みのある父親を軽妙に演じてみせる。それぞれ人格的に奥行きのある家族と接しながら、思いもしなかった昔の事情が花子を勇気づける。

 世の中を動かしているのは底の浅いクズばかりである。連中は拝金主義で差別主義だ。大金を稼いでいる自分がエラいと思っている。そういうパラダイムが猖獗を極めているのが今の世の中だ。金がなければ人間性まで否定されるし、金を得るためには尊厳を捨ててクズにヘーコラしなければならない。ともすれば死にたくなるのも当然である。
 それでも死なずに生きていく。貧しいけれど、清く正しく美しく、そして地面を這いずり回って生きていく。人生なんて一瞬だ。金のために自分を売るのは、生きていないのと同じじゃないか。
 そこはかとなく元気が出る作品だった。
耶馬英彦

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