ナガエ

瞳をとじてのナガエのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
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昨日、たまたま観ていたEテレの番組『ニュー試』に、フランスのエリートを養成する学校「グランゼコール」の試験問題が出題された。試験時間は6時間。その問題文は、とてもシンプルだ。

「人間とは何か?」

この問題に、松丸亮吾と影山優佳が挑戦し、実際にグランゼコールへの入学を目指す学生たちに哲学を教えるフランス人教員が採点を行う、というものだった。ちなみに、20点満点で、松丸亮吾が0.5点、影山優佳が3.5点だった。

「人間とは何か?」を考える上での視点は様々に存在するが、本作『瞳をとじて』と関係する話で言えば、やはり「記憶」ではないかと思う。もちろん、人間以外の動物にも「記憶」はあるだろう。しかしそれらは、「生存のため」の機能でしか無いように思う。人間の場合、確かに「生存のため」の機能としての「記憶」も存在するが、それだけではなく、「自分が自分である」という「アイデンティティ」の核になるのが「記憶」であるように思う。

「記憶」とは少し違う話だが、昔何かで「鏡像認知」に関する知識に触れたことがある。これは、「鏡を見て、映っているのが自分だと分かること」である。そしてこの「鏡像認知」は、一部の動物にしか存在しない。ネットでざっと調べると、「チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン、イルカ、シャチ、ゾウ、カササギ」辺りが持っているそうだ。世の中に存在する多くの動物が、鏡を見ても映っているのが自分だと分からないのだ。

それは、どういう感覚なのだろう、と思う。人間も、幼い頃にはこの「鏡像認知」を持たないそうだ。そして、成長の過程のどこかで、その認知を獲得する。僕らからすれば、「鏡に映っているのは自分だ」という認知など当たり前すぎて疑問を抱くことなどないが、それは決して当たり前のことではないのである。

この話、本作『瞳をとじて』を観た方には、何と対応するのか分かるだろうと思う。もちろんそれは、全然「鏡像認知」とは違う話なのだが、登場人物の1人が直面する状況は、かなりそれに近いと言える。そして、「鏡像認知」そのものは「記憶」の話ではないが、本作で描かれる状況は、まさに「記憶」がポイントとなる。

「自分が自分である」という認識は、どのように成り立っているのか考え出すと不思議だ。朝目が覚めると、夜寝た時と同じ自分だと思う。しかし、何故そう思うのか。

僕は20代の頃から、本や映画の感想を書き続けてきたこともあり、20代の頃に書いた文章
を今読むことも出来る。普段そんなことなかなかしないが、たまに昔の自分の文章を読んでみると、「なるほど、この時はそんな風に考えていたんだなぁ」と思う。やはり、今の自分とは少し違う。でも、自分の人生に、自分の価値観を一変させるような重大な出来事が起こったことは、たぶんない。だから、僕は少しずつ変わっているのだ。その僅かな変化は、自分ではなかなか気づかない。でも、たぶん、昨日の僕と今日の僕は、やはり少し違うのだと思う。でも、僕らは普通、自身のアイデンティティを見失わない。少しずつ変わっているはずなのに、まるで同じ自分が継続しているかのように、当たり前のように自分自身のことを認識できている。

「今」というのは単なる瞬間であり、それを単体で捉えることは難しい。そして「未来」を先取りして捉えることは不可能だ。だから僕らは、常に「過去」として存在していると言える。それはつまり、「記憶の堆積」ということだ。だから、「人間とはなにか?」と言えば、やはり「記憶の堆積」ということになるのではないか。

そんなことを、色々と考えさせられる物語だった。

映画は、1942年のパリ郊外、「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」と名付けられた屋敷で始まる。レヴィという男が、フランクという人物に人探しを依頼するのだ。写真1枚しか存在しない娘を、上海まで行って探してほしいのだという。フランクには何やら色々と過去があるようで、レヴィは彼に、報酬として「失ったものを取り戻す手助けをしよう」と持ちかける。

さて、これは実は、ミゲル・ガライという監督が撮影した映画『別れのまなざし』の冒頭の映像である。『別れのまなざし』は結局、未完のまま制作が中止された。何故か。主演のフランクを演じたフリオ・アレナスが撮影の途中で失踪したからだ。近くの崖に靴が揃えられた状態で見つかったため、自殺だろうと判断されているのだが、結局遺体は見つからなかった。

ミゲルにとってフリオは、監督と主演俳優というだけの関係ではなかった。海軍の水兵として出会い、その後、ミゲルのとばっちりを受ける形でフリオも刑務所に収監される。2人は親友と言っていい関係だったのだ。フリオの失踪によってミゲルは、映画と親友を失った。

そして、フリオが失踪してから22年後の2012年、物語は動き出す。海辺の村で翻訳や執筆をして暮らしていたミゲルは、「未解決事件」というテレビ番組のスタッフと会うためにマドリードに足を運んだ。フリオの失踪を番組で取り上げるのだという。ミゲル自身も番組に出演し、お蔵入りとなった映画の素材も提出した。番組を仕切るマルタから、フリオの娘アナにも連絡を取っているが出演を断られていると聞き、プラド美術館でガイドの仕事をしているアナを訪ねたりもする。またマドリードでは、ある偶然から、かつてミゲルと、そしてフリオとも付き合っていた元恋人とも再会を果たした。

しばらくして、番組が放送される。そしてその後、ミゲルの元に驚くべき連絡が入り……。

というような話です。

本当に、静かに淡々と展開していく作品であり、さらに169分もあるので、ちょっと退屈さを感じる部分もあった。でも、全体的にはなかなか面白かったなと思う。

ドラマティックさがない代わりに、色んな思索に溢れた作品だった。冒頭で書いた「記憶」の話もそうだし、あと、ミゲルが編集担当で友人のマックスとする会話もなかなか興味深い。それは「いかに老いるか」というものだ。

フリオは「女性を口説くのが天才的だった」と言われるぐらい、様々な浮き名を流す人物だったのだが、『別れのまなざし』を撮っていた頃には既に年齢も重ねており、以前ほど「モテる」ような感じではなかった。これもまた「老い」の1つの形と言っていいだろう。

フリオが失踪した理由は誰も分かっていなかったわけで、「老い」が原因だったのかも不明なわけだが、「老いることに耐えられなかったんじゃないか」という見方も可能であり、だからマックスが会話として持ち出したというわけだ。確かに「いかに老いるか」は、早死しない限りすべての人間が直面する問題と言える。

その話を重ねるわけではないが、本作にはそんなテーマをある種内包しているのかと感じさせるような要素がある。

本作『瞳をとじて』の監督は、『ミツバチのささやき』という作品でデビューし、世界を驚かせたわけだが、その『ミツバチのささやき』にアナという役名で出演したアナ・トレントを、本作『瞳をとじて』で再び、アナという役名で登場させているのだ。調べてみると、アナ・トレントは57歳のようで、まあそんな風には見えない風貌だったが、それはともかく、同じ監督の別作品に同じ役名で登場するというのはやはり、その「時間経過」を意識させるものであるように思う。

そもそも本作『瞳をとじて』は、監督ビクトル・エリセの31年ぶりの新作映画なのだそうだ。これもまた、凄まじい「時間経過」と言えるだろう。本作にまつわるそのような様々な要素が、映画の内容そのものに少し侵食しているような感じもあって、そういう部分も面白いなと感じた。

侵食という話で言えば、作中作である『別れのまなざし』と本作『瞳をとじて』もまた、侵食し合う関係と言えるだろう。冒頭で映し出される『別れのまなざし』では、フリオが演じたフランクが「探す側」を担っていた。しかし『瞳をとじて』では、フリオの方こそが「探される側」になっている。「失ったものを取り戻す」という話や、2人で歌を歌うシーンなど、この2つの作品がどこか侵食し合うような感じもあて、そういう構成もとても上手いなと感じた。

なかなか地味だし、何よりちょっと長いので、人に勧めるのは少し難しいなぁと思うのだが、淡々としながらも実に骨太の作品という感じはあって、僕としては観て良かったなと思う。
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