ひろゆき

ダンサー イン Parisのひろゆきのレビュー・感想・評価

ダンサー イン Paris(2022年製作の映画)
4.3
銀幕短評(#716)

「ダンサー」
2022年、フランス。1時間58分。

総合評価 86点。

すてきな女優さん(踊り子さん)ですね。


* * *

クラシック(古典)とコンテンポラリ(現代)の対照 は、この映画のテーマの重要なひとつです。

“古典“ は それが(当時)この世に問われたときは、すべてが “コンテンポラリ” だったわけですが、長いときの流れを経て、無数の観衆の審美をへて生き残ったものが いま “古典“ と呼ばれています。つまり時の淘汰(とうた)のないところに古典は生まれない。審美が古典を選りすぐり 鍛え上げるということもできる。書物、絵画、彫刻、建築、音楽、映画など しかり。

淘汰が もし世にないと仮定すれば、現代には古物(こぶつ)があふれてしまい、すぐれたものを鑑賞するための選択と抽出ができなくなってしまう。

しかし、現代の科学技術は異様に発達してしまっているので、電子的なアーカイブはコピー(模造)保管の物理的な容量の制約を打ち破いてしまっていますね。わたしの本棚の空き容量はたかだか知れていますが、わたしのスマホの電子書籍には夏目漱石全集122冊 15万ページが収められており いつか読まれるのをひっそりと まっている。同様に動画配信サービスを使えば、スマホやタブレットに映画を何本もダウンロードして、戸外で視聴もできる。この調子でいくと、3D映像の技術の発達で、自室でルーブルとメトロポリタンを行き来することなど雑作なくなる。これはこれでスゴイ世界ですが、そのとき 淘汰すべき審美はどうなるのか。

モネの絵画「印象派・日の出」1872年や ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」1913年は公開当初は 世の酷評を受けたといいます。夏目漱石の「彼岸過迄」1912年、ロダンの「考える人」1880年、ライトの「(旧)帝国ホテル」1923年、チャップリンの「キッド」1921年。これらの作品はそれぞれの芸術分野で、クラシックとコンテンポラリ(あるいはモダーン)との結節点のように思いますが、おもしろいことに いずれも100年くらい経年し、立派に生き残っている。とすると 100年(3、4世代でしょうか)の風雨に耐えたものが、クラシックと呼ばれる殿堂の入り口に立つことができるといえるのかもしれません。

かたやで社会共通の価値観(審美)の揺らぎが つねにあると思います。わたしは「春の祭典」が好きですが、酷評が去ったからといっても、その個性から そうでない現代人もたくさんいるはずです。揺らぎは 地域や国によって世代によって、異なるでしょう。しかし揺らぎがあるからこそ、敗者復活の道も残されていますね。揺らぎがないとこわい。文化の多様性が失われ、次の文化の創造性も損なわれる。

あとは情報伝播のスピードがからんでくる。バンクシーという謎のアーティストがいるぞいるぞ、となると、日本でもアメリカでもYouTubeでも、ひとびとがいっせいに大騒ぎしますね。むかしの 1年がいまの 1日になったようだ。こうなると、ライバルと戦えるチャンスは増えるかもしれないが、後進に追い落とされるリスクも高まります。

ともあれ、わたしとしては、科学技術の発達はこのくらいで止まってくれていいと思っています。いまでも スマホやキカイの使い方がわからないといって、次男に泣きついて教えを請うくらいですから。「彼岸過迄」一冊さえあれば、南米のジャングルでも生きていける気がするんですよ。もし映画も一本許されるのなら、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」がいいなあ、きょうの気分だと。
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