カカポ

悪は存在しないのカカポのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
5.0
悪は存在しない。しかしながら、他者の生活に対する無知や他者を自分の物語として消費しようとする傲慢は存在する。そして、その間にも水はいつも必ず低い方へと流れ、上流に暮らすものが自らの義務を怠れば、下流に暮らす者たちの不満は爆発する。
自分が今どの位置に立っているのか。お金や情報を使って何もかもが不自由なく手に入る土地に慣れていると、そんなことすら分からず、自らが義務を怠っていることにすら気付けなくなっているかもしれない。

都会(人同士が密にコミュニケーションを取らなくても生きていける土地の意)の人間は滅多に嫌われることなんてないから、自分が嫌われる疎まれ、心を開かれることなく拒絶される可能性があることを忘れすぎている。それは都会の良さでもあるが同時に、人を含めた動物たちと"触れ合えるかも"しれないと言う致命的な勘違いにもなる。根本的に人を含む動物同士は、異物とみなしたものとは分かり合えないのだ。都会では大人数がオープンに社会を運営する中でその受け入れられなさに無理やり蓋をしてみんなが表面上なんの問題もないように暮らしているだけにすぎない。コンサルのような人間が気色悪く見えるのは動物としての自分を無視し、孤独や拒絶を上っ面の理論で誤魔化して物事を進めようとするからに他ならない。何となくの「いやさ」に気付けない人間が本質的な信頼を得ることは不可能に等しい。

高橋がいくら水疋村に心を寄せたつもりでいようと、その物語の主語は結局自分でしかない。自分が今の生活を脱したいから、自分がこの村に受け入れられたいから。そこに町民の利益はない。村の暮らしに馴染めば受け入れられるかもしれないという祈りは、高橋側の傲慢だったにすぎないし、車の中で行われた高橋と黛の会話は、観客である我々が知るにすぎず、水疋村の人々は彼らの会話内容を知る由もない(高橋や黛が"悪"ではないと示したいのは観客の勝手な希望に過ぎないのだ)

動物の本質は孤独と拒絶であり、それは行動の積み重ねで攻撃性のなさを示し、雪解けのように少しずつ互いの距離を縮めることでしか溶かせない。高橋や黛がいくら村の生活に心を沿わせようと言葉で距離を詰めたところで、短期間のうちにそれは真の意味での信用になり得ることはない。
 
だからこそ最後のシーンがあったのだろうし、私はこのシーンを見て全てが腑に落ちた。鹿は攻撃しない。でも、逃げられない手負いの鹿は自分に害をなすかもしれないものを攻撃するだろう。それは同じ動物として人も同じである。巧が高橋のことをどう思っていたのか。ひいては村にとって異物の二人が結局どういう存在なのか。それに尽きる。

これまでどちらかといえば"悪"寄りの仕事に従事し、たくさんの"水疋村"でたくさんの"巧"と出会ってきた私にとってこの映画は自分の葬式を見てるようなものだった。知らない土地に暮らす人たちの話を聞くのが大好きで、彼らが分け与えてくれた言葉を守り届けるためならどんなに敵を作っても戦ってきたつもりだったけど、その使命感だって自己満足だったにすぎず、結局は私も寄り添うポーズだけしながらテイカーとして彼らの生活を食い物にした一人でしかなかったのだ。

私が訪ねなければ守られた平穏があったかもしれないし、彼らから"話し合う価値がある人間"として真に受け入れられていたかは分からない。そもそも受け入れられたいと願うこと自体が傲慢だったのかもしれない。それでも話を聞かせてもらった以上、私にそれを守るために戦う義務があったのは間違いないが、だとしても何のために戦うべきだったのだろう。私が守りたいと思っていた人たちは、もしかしたら私のことを殺したいと思っていたかも知れない。でも、それは私が彼らに与えられずただそこを通過点としていた時点で、そう思われても全く仕方ないことなのだ。
夜の森の中に一人で取り残されているような、自分の真ん中がどこにあるのか分からなくなるような孤独感や恐ろしさだけが残っている。
カカポ

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