Habby中野

清作の妻のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

清作の妻(1965年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

この映画は本当にヤバい。吉田絃二郎の原作の距離のある冷淡さをなくし、ロシア(というどこか遠いところ)で戦う日本(“お国”)、それを伝える新聞という大衆性、集団として無能で虚しい村、村に引きずられる親兄妹、まさに盲目に愛し合う夫婦、そして清作とお兼の人間一人へと、集から個へ下がるにつれだんだんと濃く深く重く描いていて、誇張でなくつまりはそれこそが人間の全てなのではないかと思わされた。模範兵として何度も持ち上げた清作を一転売国奴と罵り石を投げる“村”の姿は本当に哀しくて情けなくて涙が出てしまった。
虚像の正義(個ではなく集の生)だけを信じ見ていた模範兵清作の目を突き、これまで以上に重い枷をつけ歩くお兼と、見えなくなって初めてその虚が見え、すべてを受け入れた清作、その唯一真を見ている二人が、狭く哀しい村で生きていく最後の姿は、続けざまに死に触れるプロローグと比べても生について希望的であるがしかし、それはもはや作品から脱したただ夢想的な願いなのかもしれない。
この作品のキーはやはり清作や国や村へ対する妻お兼の存在であって、それを取り巻く「お兼」「お金」「鐘」が(しゃれじゃなく)音的にかなり強調されていたのも映画版の更なる妙でした。
たったの90分、映画という枠内でここまで憎悪と虚無、人間の哀しさと情けなさとほんの少し(少ししかない)の明るみを覚えさせられたことは正直ショックでした。お兼の溢れるような感情のうねりとあの表情、白い服に塗れる清作の血と叫び声……
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