真田ピロシキ

風よ あらしよ 劇場版の真田ピロシキのレビュー・感想・評価

風よ あらしよ 劇場版(2023年製作の映画)
3.8
金子文子と並んで尊敬する伊藤野枝。中学生の頃に日本史の教科書で関東大震災に置いて大杉栄と共に殺害された無政府主義者と記述されてたのが長らく記憶に残っていて、ここ10年くらいで大正時代の活動家をよく読むようになり彼女を詳しく知るようになった。女権拡張運動家として有名なのは何と言っても野枝の師と言える「原始女性は太陽であった」の平塚らいてうであるが、彼女はこの映画でも言われてる通り育ちの良さがあり、立派な志と高い知性はあるがどうしても見えてないものがあり立ち止まれる理性を感じた。もっともだからこそ長生きできて1970年代まで女性として意見を述べ続けられたのでそれが悪いわけではない。ただ私が惹かれるのは文子であり野枝のような不利益を承知で突っ走るバカなパンク精神。たとえ自分のものがなくなろうと困った時に困った人には惜しみなく与えられる。そういうことは現実的な損得から入る"賢い"人間にはできはしない。そう、今ネットの下劣低脳キモオタどもを中心に徹底的な誹謗中傷をされても屈していない若年女性支援団体の仁藤さんが実際には赤字を出しながらやってたように。本作で野枝がアナーキズムの原点として挙げる故郷今宿の助け合う共同体。それをもっと広い枠組みで捉えられたのならと常々感じる。こんなことを言うと共産主義とか言うんだろうけど、共産主義の何が悪いんだよ?資本主義が正しいとでも?

社会全体が右に偏り、最大野党ですら右でも左でもないと寝ぼけたことを標榜して反共に余念がない今の日本で伊藤野枝を映画化できただけでも意義がある。金子文子は朝鮮が存在を語るに欠かせないこともあるが、日本では映画化できなかった。ちょうど小池百合子や官房機密費横領松野や群馬などあからさまな歴史修正をしてる中で関東大震災の朝鮮人殺害シーンがちゃんと入っているのも良識的な文化からの抵抗と言える。野枝が甘粕に投げつけた「災害が起きても民はどうでもいい。自分たちが出世することしか考えていない」という言葉も、能登地震で何もしないことにだけ全力を尽くす岸田無能無慈悲無責任無価値メガネ文雄以下悪そのものの自民党政権に突き刺さる。それと先に少し述べたが女性差別の描写が多くてフェミニズム映画としての面も非常に強い。冒頭の望まぬ婚約で叔父によるセクハラや夫の合意のない行為、新しい女の雑誌『青鞜』に対する剥き出しの敵意。理解のある大杉でさえ、男性主体の視点から抜け出せていないなど100年以上前と大して変わっていない日本がスゴい。スゴすぎる。

そうした伊藤野枝を表すに当たって必要なことは描かれていると思う。しかし自分は野枝に関しては数冊本を読んでいて、故郷の今宿にも自転車で行き生家跡と彼女が向かいの能古島まで泳いで渡ったという海岸も眺めて思いを馳せたほどなので結構詳しい。紅吉さんくらいなら説明されずとも気づく。それで本作は元々がNHKBSのドラマだったのを映画化したもので、割とわかるためにきっとこの辺を省いたのだろうなと察することができる。

まず実質的には最初の夫である辻潤。望まぬ婚約から野枝を救い出し才能を開花させた人で、今宿に連れ戻された時には凄いロマンスがあったようなのだがそこは描かれず逃げてきた野枝と結婚する流れ。これがないからなのかどうも辻が口先だけ達者なダメ男に見える。自由でわがままは野枝にも大杉にも共通する利点であるが、本作の辻は自由に教師をやめたのはいいが本来やっていたはずの翻訳もやっていない。本当に尺八を吹きながら妻に金を稼がせ、母に子守りを押し付けてるかなりどうしようもない男。これは映画化ではなく未読の原作からそうなのだろうか。瀬戸内寂聴さんが書いた伝記小説『美は乱調にあり』では野枝を半身として愛しんでいる姿をいつか離れ巣立って行くのを予期させながらも描かれて、最初軽んじられていた大杉にも幸徳秋水時代からの平民新聞を隠し持っていることを知ると見直されたりなかなか良い男として描かれていたのだが。最期も好きなように生きてほぼ野垂れ死に同然のロックな奴が「誰が助けてやったと思ってる」なんて恩着せがましいことを言うのにはガッカリ。稲垣吾郎カッコいいのに。

青鞜も新しい女関係エピソードはカットされてそう。でなけりゃ尾竹紅吉があんなに目立ってたのがすぐに影も形もなく消えてたりしないし、若い燕の語源 奥村博史が思わせぶりに出てきはしなかっただろう。そういうのが分かってしまう。らいてうも青鞜を譲ったらお役御免で、それまでの絆と与えた影響の割に軽い。神近市子も大杉を刺すイベント要員といった印象が強い。野枝のことは嫌ってるようでこの映画でも初対面の時からやや小馬鹿にした雰囲気は感じたが生かされてはいないかなと。この辺はもっと最小限に抑えて、大杉と活動してからの姿に絞った方が良かったように思う。辻のダメ夫ぶりを描かなくとも、同志と幼な子を背負いながら活動を行う大杉の良さは十分伝わったはずだ。

大杉はお上に服従する日本社会を蟻と呼び、ブラジルの蟻には女王蟻がおらず弱った者を助けることもあるからそれになりたいと言う。また官憲のことは犬と、野枝と共に死すまで罵る。私は最近では普通の日本人という奴らを犬呼ばわりするのは犬に失礼だと思う。犬だって餌を与えられなければ牙を剥くだろう。ただでさえ少ない取り分を更に容赦なく取り上げながらも意地でも諂って庇い立てし続ける。こんなものは生物ですらない。人形だ。しかも不細工な。キモいお人形のアニメが多いのは日本人様が自己を投影しやすいからなんですかねー自分の意思をもって自由に良心に従って生きる。歯軋りするような支配に我慢ができないわがままな野枝だったからこそ、愛でてもらうのを待つのではなく人間として生きることができた。そんな野枝の野生味は今宿生まれの野暮ったい少女時代から新婚で新進気鋭文士時代の大人びた姿、紙の上だけでなく実際の市井の艱難辛苦に心を砕き共に歩もうとする成熟した婦人の姿をそれぞれ表現されていて、演じた吉高由里子と撮影したスタッフの手腕が光る。そして忘れてはいけないのは野枝と大杉が大事にしたのは安っぽいとも評されるセンチメンタル。賢しげにそれを否定しニヒリズムを気取ったところで何にもならなくてそれが一番愚かである。野枝は私小説『乞食の名誉』の中でジャスティスという言葉を強調していた。ジャスティスが一笑に付されるような世界じゃいかんのだ。大絶賛するわけではないが、この曲がらない実在の人物を冷笑と私利私欲蔓延る時代に脚光を当てたことは感謝したい。