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『L'Empire(原題)』に投稿された感想・評価

Omizu
1.9
【第74回ベルリン映画祭 審査員賞】
『プティ・カンカン』などの鬼才ブリュノ・デュモン監督作品。ベルリン映画祭コンペに出品され、審査員賞を受賞した。

けっこう期待していたのにそれを下回ってきた。あれ、デュモンってこんなもんだったっけ?と思ってしまった。過去作をつぎはぎしたようなストーリーや演出に飽き飽き。

スペースオペラというのは新しいかもしれないが、『プティ・カンカン』で既にエイリアン云々という話はやっているし、それ以外に新しい要素があるかというとない。

普通のフランスの漁村が舞台のスペースオペラというのはデュモンらしくっていいのだが、内容があまりにも『プティ・カンカン』すぎる。あの警官二人は出てくるだけで笑うが、それは『プティ・カンカン』を観ているからだし…

シュールで奇妙な語り口のデュモン、本作でも徹底しているが、過去作のつぎはぎでしかない脚本に飽きてしまった。キャストはみな面白いし笑わせられたが、何せ新鮮味がない。それに尽きる。デュモンは好きな監督だけに期待していたらかなり肩透かし。うーん、これ以上は望めないのかなぁ…
[フランドルの"スター・ウォーズ"は広義SF映画のカリカチュア] 80点

傑作。2024年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。ブリュノ・デュモン長編12作目。舞台はいつものブローニュ=シュル=メール、ここに一人の赤子がいる。帝国の未来を背負った"運命の子"である。この田舎の砂丘地帯に暮らす人々は徐々に宇宙人と入れ替えられ、赤子は父親役として選ばれた騎士ジョニー(人間の姿ではボロ船でロブスターを獲っている)以下白馬の騎士団が守っている。彼らは宮殿型宇宙船で指示を出すベルゼビュス(恐ろしいくらいノリノリのファブリス・ルキーニ)の手下であり、悪意を以て人間を堕落させることで地球を征服しようとしていた。一方で、聖堂型宇宙船で指示を出すクイーンの手下たちも地球に潜入し、人間を育て向上させることで地球を支配しようとしており、厄介な"運命の子"を排除しようとしていた。というように、善と悪、聖堂=聖と宮殿=俗、0と1など、とにかく二項対立を極化させている。他にも、いかにも無理矢理考えた"宇宙人が地球で戦う理由"やジョニーの心に火を付けるためだけに冒頭で意味もなく惨殺される妻="冷蔵庫の中の女"、人類にはまだ作れなさそうな武器(明らかにライトセーバーな武器が登場)、やたら薄着な女性キャラクターたち、唐突に恋愛関係になる敵同士の男女と謎の三角関係など、広義SF映画映画のカリカチュアが多く放り込まれている。こちらも極化されているため、物語そのものは概念的で退屈なのだが、そういった単調さ/退屈さ/くだらなさは監督の意図したところだろう。この作品から滲み出る形容し難い近寄り難さには、監督の過去作『フランドル』を思い出した。登場人物全員が概念みたいで、極端に人間味が薄かったあの作品を。また、舞台が同じ場所ということもあってか事件の捜査は『プティ・カンカン』シリーズでお馴染みのポンコツ憲兵隊二人が担当しており、その意味では同シリーズの世界観と接続されている。この二人は一見して人間サイド(つまり宇宙人ではない)ことが確定するという意味で、善悪それぞれの宇宙人が人間を依代としたことで人間性とはなにかを問うのとは反対に、漫然と人間として生きている側の代表といったところか。

元々はアデル・エネルが出演していたようだが、"性差別的/人種差別的でキャンセルカルチャーと性暴力に関するジョークに満ちていた"脚本を何度指摘しても書き換えなかったことを理由に降板し、それがフランス映画業界全体に蔓延しているとして映画界からも去ってしまった。デュモンは公開にあたって一応の反論はしているが、論点がズレているので概ねエネルの指摘通りなのだろう。上記の通り、半分くらいはカリカチュアを意図してのこととは思うが、『フランドル』同様に眉を顰めたくなるシーンも結構あった。
4.5
【ゴシック建築戦艦VSバロック建築戦艦に対する考察】
※長文注意

第74回ベルリン国際映画祭にブリュノ・デュモンの新作が来たのだが、予告編を観て度肝を抜かれた。《スター・ウォーズ》なのである。ライトセーバーによるバトルシーン、スター・デストロイヤーを彷彿とさせるゴシック様式教会型の戦艦が姿を現す。だが、これは単に《スター・ウォーズ》パロディ映画ではない。『プティ・カンカン』最新作でもあるのだ。閑静な田舎町を舞台に、宇宙戦争が繰り広げられる。そこに、おとぼけ刑事であるRoger Van der Weyden(調べて気づいたのだが、恐らく北方ルネサンス画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンから名を拝借している。フランドル、写実と形而上の関係性で監督の作風に引き込んだのだろうか?)が紛れ込むのである。実際に観てみると、『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』の正当な続編であり、空から降ってくる黒いベトベトンの正体が判明するファン歓喜な作品へと仕上がっている。

一方で、本作は「人種差別的で性暴力に満ちた脚本を変えてくれなかった」ことを理由にアデル・エネルが降板、映画界に失望して去ってしまう問題を発生させた作品でもある。これは現在、Xで論争となっているSF的思考における暴力性とも繋がってくる話だと思う。SF的思考で発生する差別的要素を虚構だとして批判を跳ねのけることができるのか?恐らくそこで重要なのは、差別的なSF思考はそれに対する批判的思考とセットになっているかだと思われる。ブリュノ・デュモンが脚本を変えなかったのは、本作が植民地主義や政治によって大衆が人間としてではなくただの動物として、そして数として扱われる様を表現するために必要だと考えたからであろう。そこで合意が取れずアデル・エネルと決裂したと考えることができる。その上でこの事件から考えなければいけないことがある。哲学者は大衆心理を抽象的に捉えようとする過程で、無意識に個の感情を棄損してしまう可能性があるということだ。東浩紀か誰かがXにて推し活方面の文化受容に対して批判的に論じることの難しさについて語っていたが、それは推しに対する個人の感情を群として捉えることによって棄損してしまうことを言っているような気がする。この問題は、一旦ここまでにし、『L'Empire』の世界に向き合うことにする。ブリュノ・デュモン作品は美術史の観点が重要となってくる。

『ジャンヌ』が顕著な例であろう。

以下、CINEMAS+に寄稿した自分の文章を引用する。

《ジャンヌ・ダルクの異端審問が行われたのはルーアンである。しかしながら、本作ではアミアン大聖堂で撮影が行われている。アミアンの情報サイトAmiens Métropoleでの監督インタビューによれば、マルセル・プルーストから影響を受けているとのこと。彼はジョン・ラスキンの「アミアンの聖書」に「大聖堂は、文字を読めない人のためにある陽光の中の聖書である。」と序文を寄せており、 その言葉に魅了された監督はアミアン大聖堂にて撮影することを決めた。

世界遺産であるアミアン大聖堂は13世紀にロベール・リュザルシュによって建てられたゴシック様式建築の最高傑作だ。入り口には上部のタンパンには最後の審判を受けるキリストの姿が彫られている。またタンパンをよく見ると、魂の重さを計る大天使ミカエルに対して、悪魔が地獄側に天秤を傾けようとしている様子が確認できる。『ジャンヌ』においてタンパンは映し出されないが、まさしくこの物語を象徴するロケーションであろう。垂直に高い聖堂内を見下ろすように撮る。重厚な側廊が画面に窮屈さを与え、遠くに小さく映るジャンヌの姿を通じて孤独を物語る。》

『L'Empire』もまた教会建築が極めて重要な作品となっている。今回はそこに着目する。

本作はゴシック様式であるサント・シャペル戦艦とバロック様式カゼルタ宮殿戦艦が宇宙から地球支配を巡って対立する話である。カゼルタ宮殿サイドからは黒いベトベトンによって人間を宇宙人に置換しているらしく、既に田舎町ではある程度新人類へと置き換わっている。地球では、人間に擬態する宇宙人たちが暗躍している。本作は、戦争や政治によって人々が統治者の意図によって塗りつぶされてしまう駒のような人間像を風刺した作品となっており、露悪的な茶番となっている。ここで重要となってくるのはRoger Van der Weydenの存在だろう。地球の危機にもかかわらず、Roger Van der Weydenはのんびりとした店舗で捜査している。まるでラヴ・ディアス映画のように、静かに地方都市が支配されていく様を担わせているのだ。

これらの茶番は、ハリウッドのSF超大作へ牙を向いており、スペースオペラの壮大ながら以外にも小さな政治戦に思える様を表現しているように思える。また、戦艦として耐久性を考えるのであれば、ゴシック様式よりも壁が重厚なロマネスク様式にすべきだろう。しかし、2つの理由からゴシック様式である必然性がある。ひとつは宇宙船のごちゃごちゃしつつも洗練された造形との類似性を指摘できるからだ。実際にサント・シャペル戦艦の外観は、ゴシック様式の特徴であるステンドグラスやフライング・バットレスが備わっている一方で宇宙船らしいタンクのようなものも備わっている。天上を表現するためにやたらと縦に長く、宇宙戦艦としての耐久性はなさそうだが、宇宙戦艦らしさもあるユニークな造形を実現させている。2つ目はゴシック建築が修道士や聖職者だけでなく都市に住む裕福な人や知識人も加わって作られたことである。ゴシック建築は都市に集まる人々のフラストレーションを和らげるためにステンドグラスなどを用いて光や美を表現しつつ人々を導こうとした。つまり、本作でゴシック様式が登場するのは都市から地方への統治を示唆する目的がある。

このようにサント・シャペル戦艦を考えた時に、対立する相手がバロック様式な点に疑問が湧くだろう。一般的にゴシック様式はロマネスク様式と比較される。またバロック様式はルネサンス様式と対比されるからだ。また、バロック様式でフランスの宮殿ならヴェルサイユ宮殿がある。なぜ起用しなかったのだろうか?

ここにもブリュノ・デュモンとしての考えがある。まず、本作はカゼルタ宮殿でなければいけない。なぜならば、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』に登場するアミダラ女王の宮殿のロケ地だからだ。《スター・ウォーズ》パロディ映画として、カゼルタ宮殿を使用する必要があった。また、バロック様式の時代には理想化神聖化された宗教画よりも写実な宗教絵画を生み出す画家が登場した時期であった。『L'Empire』に登場するライトセーバーによる斬首は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの「洗礼者聖ヨハネの斬首」やアルテミジア・ジェンティレスキ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」を意識したようなものとなっている。虚構でありながら写実的な斬首のイメージをバロック様式に託しているといえる。

ここで地球(=田舎)サイドとしてロマネスク様式が登場しないのは、堅牢敬虔な壁が敷かれる前に侵略されてしまっているからだろう。もう時すでに遅し、後は政治によってどっちに回収されるかを指を咥えて見つめるしかない。政治家の活動を見守るしかない様のためにロマネスク様式の要塞は消滅してしまったといえる。

このように美術史を踏まえてみると『L'Empire』はより味わい深いカリカチュアとなるのである。