まりぃくりすてぃ

ルックバックのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ルックバック(2024年製作の映画)
3.3
去年一本だけ観た映画のうちのベストワンです🏆!!!

真夏に久々に吉祥寺でお買い物させてもらって、あと1時間半ほど一人きりの貴重すぎる自由時間得て、涼もうと入ったカフェ代わりのサービスデイのUPLINKで、必ず至福になれるとわかってる『エンドレス・サマー デジタル・リマスター版』観るつもりが、たまたま世評高いこのアニメが5分前と知って「ここは攻めの気持ちで」とルックバック室へ。ショートにしては高い上にサービス料金適用外を全国一律だから、絶対見るまいと反発してたんだけど。サーファーや元サーファーなら何度リピしても100%満足陶酔できる名作を諦めてなんだから、ハードルは高いぞ。。
「これもまたステルス値上げだストレスだ」(季語/テル→テルテルボウズ→梅雨)

そしたら、出だしの四コマからして最高で(特に血の❤)、性別不明の時間帯が続いた藤野ちゃんのカオも気持ちよくみれるし、地に足のついた展開興味深いし、スキップ場面すごくすごくすごくよかった〜! 日本のアニメの粋(と努力協力)の結晶ってかんじで、映画史に残る名場面だぁぁ。

このスキップでブツッと切って終わらせて、『見たいみたいみたい』という題にしてくれれば、鉄拳の振り子なんかに泣きまくれる感激屋の全世界に向けて、ショートアニメ史上最高不朽傑作宣言ができただろうし、原作者の漫画人生の原点を永久パッケージできて必要十分だし、続きが知りたれば原作読むべしとなって、みんながみんな幸せになれたはず!
……なぜこんな提言しちゃうかといえば、、

後半にノイズが次々とのさばって私を鼻白ませたのだ。
「京本のカオが雑で古臭くてイヤ」
「二人が街を行く場面とかに作り手のリビドー感が滲んでて、鑑賞者と一緒になって女のコを愛でたがっててイタイかも」
「京本の訛りの強調がアザトイ」
「藤野の『私のせいじゃん』が、全然そんなふうに思う必要のないザ・浪花節なのでイライラさせる」
……しかも終わってみたら「で、藤野のそれからの快進撃や試練団円をプラス30分して描くべきでしょ? ここで終わってやっぱ内容量的にステルスじゃん」!
見終わってすぐラストがどんなだったか忘れた。やっぱサーフィン映画の金字塔のほうに適正サービス料金で包まれたかったなぁと。(ルックバックの特典もらえなかった怨み)

でも、四コマがどれもよかったし、全体印象と題による考えさせは、まるで京都の最お洒落観光スポットの一つである「もみじの永観堂」なんだよね🍁
京本の姓が作者藤本さん+京都アニメであることは明白?だし、その永観堂の回廊をだんだん上がっていった先に「見返り阿弥陀如来立像」との邂逅をプレゼントされたような充実感と納得感が、映画からそこはかとなく来る。
しかも途中で突然、同じく京都の最お洒落最ディープスポットの一つ「紫野の源光庵」の迷いの角窓vs悟りの丸窓の上に突如現れてしまう恐怖の血天井!の悲痛(と鎮魂)。
ひょっとしたらこの映画は、済度してくれる即身仏の山形県と洗練された悟りと救済の京都とを、ルックバック(look back over the shoulder)というキーワードで結びつける、精進としての創作論物語なのかもだ。。

それはそうと、最近やっと藤本さんの原作漫画を入手して、私は私のノイズキャッチが一つも間違ってなかったことを知った。先述した不快要素が原作にはまったくないんだから。原作は、完璧かつ最高。難ありなのはアニメのほう。

「京本のカオ」は、藤野もそうだが漫画では薄めでモシャモシャしててとても優しく自然だし幼稚っぽくない、いわば明朝体。それがアニメ化により、変にハッキリしたゴシックに。作り手たちは原作通りのキャラデザにしたつもりだろうが、原作の京本の目元の魅力が無芸な同寸法ゴシック移行によって85%ぐらい削がれてしまっている。カオが悪いんじゃなく、カオの描き方が2020年代の大人の鑑賞に堪えない。

「リビドーうざい」は、原作にはそういう臭みがゼロ。漫画の中で藤野も京本も、女であることが何ら強調されず、読者全員が自己とそんな人物たちを重ね合わせられるだろうし、それでいて自然に二者の女性らしさが齢とともに増えてきていて、嫌味なく秀逸だった。もちろんすばらしい画力に支えられて。
ところが、アニメ化で声優の声が付着して街歩きなんかのキラキラ☆のテンションが“消費”されたがってる。声優が悪いのではなく、中性的なぐらいに普遍的だった原作の二者造形が、そもそも本当はアニメ化を必要としなかったのかも。

「訛り」も、原作にまったくなく、話の普遍性にとっては不必要なこだわり。べつに訛るなということではない。京本だけを訛らせたことの意味性が、映画において強すぎるのだ。

「『私のせい』問題」は、原作においては読者の主観で読み流すこともそこに寄り添い留まることも自由にできた。呟き方だって、強弱・緩急・感情どれも読み方次第だった。アニメにおいては声優と演出者がその台詞にじっとりと万感を込めちゃってて、鑑賞者は聞き流すことができない。同調圧力っぽい。そりゃ誰だってあの事件は忘れないよ。
原作は作者藤本さん自身の漫画家としての決意表明のエリア内で感情すべて完結しているようなのに、アニメ化では京アニ事件が嵩張ってる。ほかの生活感や家族関係描きのウェートと比べてもそこが支配的すぎるのだ。
「私のせい」なんて言ってる暇があったらさっさと犯人を殺しに行け!という私なんかのイライラに原作者は事もなげにマイペースで応えきってる。けど、アニメは「私のせい」と粘っこく言い過ぎたために後に引けなくなってハンパな鎮魂映画(のサナギ)になった。
しつこく言うけど、藤野ちゃん、あんたのせいなわけは、これっぽっちもないでしょ。“そういうふうに思いかける瞬間もある” という程度のせつなさをこぼすだけにしてほしかった。

「そこで終わりじゃないのに、藤野の歩みがもっと見たいのに…」は、原作ではべつにそういう物足りなさゼロ。完璧で最高な漫画だった! まじ日本の漫画は世界一✨🏆✨

ということで、アニメ化によって福が増したのは四コマの❤とうっとりスキップマジックと藤野ちゃん全般。基本は原作通りなので、原作が動いてますという以上の価値を全場面からがんがんがんがん受けることはなかった。
でも、永観堂の緋毛氈の上を廻り上って凛々しくてキャワキャワでもある見返り阿弥陀様と出会えたようなルックフロント?な好作品だった。美しい映画だった。。

ところで、暴力はおぞましいけど、人の作品をパクるやつも断じて赦さない。

私はある年齢から作曲を大切な趣味にして、次々とキーボードでヒット性高いのをリズムつきで演って録音して「1stアルバム」「2ndアルバム」と称して周囲に配っていた。聴いた人たちは「今年聴いたすべての音楽の中で一番よかった」「涙が出た」「泣きそうになった」「デビューしなよ」と絶賛してくれて、みんなを楽しませてキブンよかった✨
ところが、その中で最も私自身気に入っていたきらびやかなモータウン調の曲のサビの一番感動的なところが、わずか2年後ぐらいに某プロミュージシャン♀にメロディーパクられた。そのパクリ曲はチャートを駆け上がってソイツの代表ミリオン曲になった。
私は誰彼なしに「パクられた」と訴え、ソノオンナへの憎しみはずっとずーっと長年消えない。客観的にいえばパクリというほどのパクリ丈じゃないし、ソノブスがパクったという証拠ないけども、私の魂のこもった曲のサビの一番おいしいところがその曲の一番感動的なところとして流通してて私のほうが先なんだから、だから、パクられたと逆上する狂人の気持ちがよくわかる。単なる言いがかりじゃないんだよ。
だから、、
私は以後、私の中に湧いて湧いてたまんない何十曲にもなる新たな未発表未演奏曲を、けっして誰にも聴かさないようになった。家族にさえも聴かせない。コンピューターにも入れない。
その中には、最高のクリスマス曲(JAZZテイストの)や最高のサーフィン夏曲や最高の沖縄民謡っぽ曲等々があり、特にちゃんとバンドで吹き込めばビルボード年間1位間違いなしのシャッフル曲(CanCam層の女のコが失恋の痛みから立ち直ろうとして世界の平和と民主主義に目覚める歌詞の♪)は、イントロ間奏アウトロ含めて完璧に全楽器パートまで1音1音確定していて、正式録音〜発売が永遠に待たれている…にもかかわらず、私はけっして誰にも聴かせたことがない。今後も聴かせない。不十分な形の鼻歌やアカペラとして聴かせて「え、その程度?」とかガッカリされたくないし、万一巡り巡って誰かにパクられたら絶対にイヤだから。
それらの佳曲たちが、しょっちゅう体内には鳴り響いているのに。
時々私は思う。もし今私が死んだら、これらの圧倒的名曲たちは、世界中の誰も聴いたことがないまま私の脳とともに永遠に消えるのだ。こんなにいい曲ばかりなのに! それが不思議で不思議で仕方ない。無念とかじゃなく、何か、クスクスしちゃう。宇宙と自分との関係って、とても不思議。。
で、あまりにも各楽曲の体内での完成度が高いために、一曲一曲が「2分50秒 」「3分25秒」「4分38秒」というように、いつ胸の内でだけ歌ってもほぼまったく同じ所要時間で終わる。そのため、ここ数年私は、パスタを茹でる時とか炭酸泉やサウナに入ってる時とか子育て中に、砂時計や授乳タイマーの代わりに私の中に曲を流してエンドの1音まで演りきるというひそかな活用方法で創作の果と溶け合ってる。
無実の罪で懲役とかなったら釈放の日まで何十年も私の数十曲たちを脳内ヘビロテメドレーして幸せでい続けたい。時計もスマホもなくても大丈夫。。。。