次男

イカとクジラの次男のレビュー・感想・評価

イカとクジラ(2005年製作の映画)
4.2
イカとクジラ、の展示は見たことないけれど、絵はどこかで見たことあった。
勘の鈍いもので、再生するまで気づけなかったのだけど、でもすぐに、「ああ、きっと、あのイカとクジラか」なんて思い至って、強烈に絡まり合ったあの二匹の戦いを、いがみ合うふたりの親に簡単に重ね合わせた。

観終わってみて、この、安易すぎた連想こそが、むしろこの映画の肝なような気がするんだよなあ。

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たとえば『メイジーの瞳』とかを観るとさ、スーパー大前提的に、「夫婦はともにあるべき」なんてまず掲げられたりして、いやまったく、そうですよねと思うのだけど、なんだろう、どこか腑に落ちないところもあるんです。


かつて文壇にいた文化人気質の煩い父と、夫より売れっ子物書きになった尻軽の母親が、16歳と12歳のふたりの息子を巻き込んで離婚してしまう話で、そんな境遇に静かに翻弄され影響されるふたりを見ていると、誰のせいって他ならぬふたりの親のせいでしかなくて。でも、なんでかわかんないけど、なぜか、致し方なさばかり感じてしまいました。罵り合ったりするふたりはさながらイカとクジラではあるんだけど。なんでだろう。
理不尽な親のせいで!みたいなことをあまり思わなかったのは、少なくとも僕の目に、ふたりの親が、ふたりの親というより、一組の男女として見えたから、かもしれん。


先に挙げた、「腑に落ちない」理由ですが、ひとの親になった瞬間に「男と女」としてのアイデンティティがすごく蔑ろにされてるような気がするからです。(僕の未熟さを露呈するだけかもですし、語弊を恐れずに書きますが、)男と女であることが原因のトラブルなんて、別に当たり前に起きて然るべきなんじゃないの?って。だって、だって。

年をとるごとに、僕の中の子供っていうアイデンティティの濃度がどんどん下がっていっていて、男であることの濃度があがっていくと、正直、親であることに徹している自分の両親が、どんどん理解しがたい存在になっていく。否定でなく、ただ理解しがたい。いっそ、男とか女とかであったら、その上に「親」ってアイデンティティが乗っかってるだけなら、まだ少しわかる気もするのだけど。まるで、男と女と親がいるみたいにすら思うんだ。

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この物語が、ノア・バームバック監督の実体験に寄っているという話を聞いて、なんだかすごく納得した。

両親が絡み合う「イカとクジラ」で、そんなふうにいがみ合っていることは、当たり前に泣き出したいほど受け入れられないことだと、思う。想像する。
けど、ジェシーは、いや、ノア青年は、イカとクジラが別々の生き物であるということに、気づいたのではないかなあ。親であるけれど、それ以前に男と女であること。父親と母親は、親っていう同じ生き物なんかじゃなくて、男と女っていう別の生き物だってこと。その男であり女である様は、自分が男であることとなにも変わらないこと。親が男や女だとしたら、自分は子供でありながら男であること。
こんな整理は、当たり前のようで当たり前じゃない。父親からの卒業も含めて、大袈裟に言えば彼にとってのアイデンティティクライシスなんだろうけど、博物館を出たあとのジェシーは、大人の仲間入りしているのだと思う。


基本的に歓迎されない出来事であることは重々承知しつつ、それでもこの出来事が青年の、ノア監督の芳醇な感性を作ったって側面も、あったのではないかなあ。
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