zhenli13

風のzhenli13のレビュー・感想・評価

(1928年製作の映画)
4.7
これが噂の…はぁ〜なんとも興味深い!
リリアン・ギッシュ演ずるレティという女性の役柄にあてられた曖昧な性質が色々あだとなっている。後述するが男性の誠実さや正当性を浮き上がらせるための、脆弱さや不安定さの表象としての女性像ともとれる。

汽車内でのギッシュの姿に切り返されるいやらしい微笑みの牛買い男がすり寄ってきても彼女は曖昧な微笑みで受け入れてしまうし、粗野なカウボーイ二人の求婚に対しても「二人とも素敵すぎて選べない」などと述べ、牛買い男から逃げるためだけに適当に片方を選び、二人のいないところでうんざりしたような態度を取ったり、キスされると生理的に許容できないとばかりに押しのけて唇を激しくぬぐう。そのわりに不安になったり助けを求めたりするごとにその場その場で抱きつく様子も見られる。
全体にギッシュの無自覚な行動が散見される。そもそも彼女はなぜ遠い地に一人でやってきたのか。きょうだい同然だったという従兄を頼り一緒に住むためというが、彼に家族があることも承知で居候を決め込もうとしている。従兄は歓待するが妻が嫌な顔して悪役に位置づけられるも、嫌がって当然ではと思ってしまう。

牛買い男のガスライティングにより風への恐怖を隠せなくなるリリアン・ギッシュの表情に合わせるように、あばら屋がすきま風でそのうちキートンみたいに家が回ったり壁が飛んだりするんじゃないかというくらいあちこち揺れまくる。なにしろ私も自然現象の中で風はかなり苦手。

目ぇ見開いて狂気を帯びていたギッシュはスッと真顔になり「私はあなたとは行かない」と牛買い男に毅然と述べる。その姿にロバート・アルドリッチ 『ふるえて眠れ』のベティ・デイヴィスを思い出した。彼女も毅然と、しかし安らかな表情で車に乗った。『ふるえて眠れ』のデイヴィスと『風』のギッシュの違いは何か。デイヴィスはすべての属性を失った瞬間初めて、一人の人間としての尊厳を取り戻した。ギッシュのレティは(この時代、はてには現在までも多くの女性がそうであるように)属性が無ければ生きていけないことに、無自覚にしがみついている。彼女はどこに属するかの選択を自らの意思でしたに過ぎないし、それを責めるわけにはいかない。そういう表象となるべきコードをしかれているのだから。
リリアン・ギッシュ本人は生涯独身だったという。

最初は粗野だった二人のカウボーイが割と紳士でギッシュがいくら嫌おうとも彼女が望むようにするために金を稼いで守ろうとしたり、敵である牛買い男が怪我をすると自宅へ連れて帰ったりする。特に結婚した方の彼はだんだん凛々しく見えてくる。このあたりが女性の脆弱さ・不安定さのコントラストとしての、男性の正当性・誠実さの表象(もちろん牛買い男もさらにそれを強調する役目)となっているように見える。最後の最後に彼女の「愛」を知り、ギッシュももう風は怖くないと宣い二人は笑顔でタイタニックのようなポーズ(というかタイタニックのあれは本作のオマージュなのか?『静かなる男』も)を決めるものの、それ本当の愛?と訝しんでしまうのは私の心根が腐っているからなんだろーか。某Wikipediaによると本当は違うラストだったらしくそちらの方が「風」の扱いとして合点がいく。

手で背広の砂をはらう動作を初手から随所で繰り返してきた男が、死体となってその背広に砂を積もらせるというショットが憎すぎる。
あと従兄が帰ってきて解体途中の牛を背景に、従兄の妻がしがみつくようにキスするという構図がすさまじい。
オーバーラップする奔馬のたてがみとその動きが絵画みたいなのもすごくて、窓から大風に荒れる砂地の庭を一瞥するギッシュの恐怖の表情、砂地から徐々に顔を出す男、顎をあげて吠える犬、という切り返しの一連の流れもすごい。

にしてもリリアン・ギッシュのなんという可憐さ!このとき三十代なかばだったとは。序盤の汽車内での後ろ姿の細い首と小さく丸い肩ですぐ彼女だとわかる。この役はギッシュでなかったらもっと嫌な奴に見えたかも。




新型コロナ罹患蟄居中にこの伝説的作品を初鑑賞したの忘れない。
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