ninjiro

出発のninjiroのレビュー・感想・評価

出発(1967年製作の映画)
4.4
ベルギー、ブリッュセル。
しがない美容師として働くマルクの今、目の前の夢は、週末に開催されるラリー大会に出場すること。職場のボスの所有するポルシェをこっそり拝借するつもりでエントリーを済ませてしまったものの、当日ボスには車を使う予定があるとのこと。代わりのポルシェが必要だ。僕は、どうしてもレースに出たいんだ…。

一般にジャンルとしてはコメディに分類されているようだが、決して笑える映画ではない。
キャラクターのセカセカした感じは確かにスラップスティックコメディっぽくも映るが、それも表面的なものだけで、元より笑いを頂こうと狙って作っているとも思えない。
逆にこれをコメディと定義してしまったら、痛々しくスベりまくっているかのように見えてしまうだろう。それは些か不憫である。

ジャンプカットの多用や逆回しなど、そこかしこに観客が映画の物語の中にスムーズに没入することを阻害する仕掛けが施されており、同時代フランスで勃興していたヌーヴェル・ヴァーグの影響を色濃く受けていることが一見してわかる。
またこうした技法が、ジャン=ピエール・レオー演じる主人公マルクのキャラクターと相俟って、今観ると全体に大層落ち着きのない印象を残すかも知れない。
しかし、当時のこれを観た人が如何に新鮮さを感じたかは容易に想像できるし、初めての西側(ベルギー)での作品作りの自由を楽しみながら、既存の映画文法を崩していこうとする若き日のスコリモフスキの瑞々しい息吹が、この作品の軽快なタッチに感じられることが、何より嬉しい。

マルクにとってレースは最も大事なもの。
しかし彼の性急にして安易な思考は、そのレースの先にあるものまでは見通せない。
それどころか目の前のレースに注力する余り、若いマルクには彼の手の届く範囲、その足元すらも見えていない。
彼は辺り構わず悪態をつき、喚き散らし、目的のためには自身の頼りないモラルが許す範囲の軽犯罪も厭わない。
しかし一方で、性や一般倫理などに対して過剰に潔癖な一面も持っている。
それは意図的にデフォルメされた若者像だ。
そんなマルクは自身と同じく何も持たないミシェルに出会う。
手元不如意、貧しい二人がただ寄り添うように一緒にいる姿は、それだけでどこまでも美しい。
原付バイクに二人乗りする美しい表情のクローズアップ、楽しそうに大きな鏡を抱えてふざけ合う姿、夜間閉鎖されたモーターショー会場で見つめ合う幻想的なシーン。
こうした「二人」の絵画的に美しいシーンの積み重ねは観る人の胸に秘めた郷愁や憧憬を呼び起こし、本作の本旨が青春の漂泊であることを自然に観客に意識させていく。

かつて初めて「バッファロー'66」を観た時にも感じたが、今回改めて本作を観て、やはり両作には共通する部分が多いと感じた。
思い込み激しく、自分勝手で空気の読めない潔癖性の主人公。無機質な部分もある、夢見がちな男にとって都合のいいヒロイン。一つだけの特技、雑な目標・目的、浅はかな計画、そして救いと希望。共通のキーワードだけでも幾つも掘り出せるような気がする。
決定的なのはラスト近くの一連のシーンだろうが、多くは語らずにおく。

また、本作のラスト観た人には、もう一つ別の作品名が浮かぶかも知れない。
それはモンテ・ヘルマンの「断絶」。

ギャロやヘルマンがスコリモフスキ或いは本作からの影響を認めているかどうかは、私自身の不勉強の故知るところではないが、これはスコリモフスキが寡作の人ながら長く広く映画の世界で静かな影響を放ち続けていたことの証明ではないかと思う。
「エッセンシャル・キリング」でスコリモフスキと運命の邂逅を果たしたギャロは何を思ったのだろう…(勝手に妄想しているだけ)。

コメダの劇伴は本作のブリッュセルのロケーションと都市生活を切り取った映像にマッチして洗練を演出しながら抜群の存在感を示す。
言わずもがな、若きジャン=ピエール・レオーの美しさは素晴らしい。

傑作である。
DVD、買っておいて良かった。
ninjiro

ninjiro