Fitzcarraldo

ミニー&モスコウィッツのFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

ミニー&モスコウィッツ(1971年製作の映画)
4.5
限りなく誠実に、限りなく残酷に人間の「感情」に注視し、どこまでも自由な映画作りを追求してきたジョン・カサヴェデスによる「人は何のために結婚するのか」をテーマに『フェイシズ』『ハズバンズ』に次ぐ結婚三部作の第三部。通算では六本目となる監督・脚本作品。

「結婚という制度にはずっと反対だった」と語るカサヴェデスも25歳で結婚しているのだから何のことやらよく分からない…日本が世界に誇るOZUこと小津安二郎のように生涯独身を貫いてこそ言える言葉ではないのか…小津サンが結婚という制度に反対して独身を貫いたのかは定かではないが…

カサヴェデス作品は若い頃に熱中して関連書籍も読んだものの、もはや遠い記憶となり果ててすっかり覚えてない…
先日『特攻大作戦』を見た際に、おっカサヴェデス出てるじゃん!!懐かしいなっと思ってたので、久しぶりにカサヴェデス作品を鑑賞。若い時分の時はスマホもなければNetflixも当然なくて本作はレンタルもされてなかったように記憶している。なので本作は当時も見れずに初鑑賞にあたる。

表題でもあるミニーとモスコウィッツの二人の関係は、カサヴェデスとその妻ジーナ・ローランズとの関係が下敷きになっている。

さて物語の話を…
本筋とは全く関係ない市井の人々がシーモア・カッセル演じるシーモア・モスコウィッツに次々と絡んでいく…初見では誰が本筋に関わるのか知れないので、あとからアイツなんだったんだ⁉と不思議な感覚になるも、市井の人を入れ込むことで、物語をひとつの型に留めることなく、ある一定の広がりをもつことにも繋がるし、その時代感覚を把握しやすくなる効果があるように思われる。
…が余りにも関係なさすぎるために、それがノイズとなってしまう危険性も同時に孕んでいる。一概に善し悪しは言えない。受け手次第で変化することだろうと感じる。

労働者ばかりが集まる大衆食堂で、ツバをペッペッと飛ばす太っちょの男や、その男に対して注文しないなら邪魔だから早く出ていけと何度も促す関西のおばちゃんに有りがちな無駄に派手な化粧で威圧するウェイトレス。
カリフォルニアへ移動する飛行機の機内で隣に居合わせた母娘。その娘が全く機内食に手をつけないので癇癪を起こす母。よくいるよねーこういう母親、こっちが気分悪くなるようなね。そこにバックスバニーに扮して娘を喜ばすナイスガイのシーモア。ここで本当にさりげなくシーモアの性格を表現してるのだが、余りにも日常的すぎてで劇的という観点から遠くかけ離れているために、そういう童心っぽさが彼の良さなんだと初見では少し分からないかなと感じるけど、現代の邦画でよくあるようなベタで型通りの分かりやすいTHEイイ奴君ですよという表現より断然いい。

カサヴェデスの本妻であるジーナ・ローランズ演じるミニー・ムーアと、プロの役者なのか一般人なのか情報が全くないエルシー・エイムズ演じる年増のフローレンスの二人が、宅飲みでワインを開け大いに女子会に花咲かせている名シーンを再録する。

ミニー「まだ恋したい?」
フローレンス「もちろんよ」
ミニー「あなたぐらいの歳でも欲求があるの?女として愛されたいって…」
フローレンス「当たり前でしょ」
ミニー「セックスしてる?」
フローレンス「してるわ」
ミニー「ごめんくだらないこと聞いて。でも知りたかったの…性欲って衰えていく?なくなるの?」
フローレンス「時々ね…すごくイライラするの。それが性欲のせいかよく分からないわ。一人暮らしのせいかも…あとで考えても分からない」
ミニー「私の場合だけどもっと性欲が強いみたい。なんていうか激しく欲情しちゃうの。相手に尽くしてしまう。世の中はバカ男でいっぱい。女に飢えてるの。彼らが求めるのは肉体だけじゃない。女の魂も欲しいのよ。心や精神とか…女のすべてを奪うまで男は必死になるけど手に入れたら急に興味をなくすの」
フローレンス「男はバカだわ。あんたの言うとおり」
ミニー「映画ではそうじゃない。映画って陰謀だと思わない?絶体にそうよ、間違いない。映画は私たちをワナにハメようとするの。子供のころからだまされてた。何でも信じさせようとする。映画を観るとその気になるわ。理想が現実に思えるの。勇気とか善良な男とかロマンスとか。それに…もちろん愛もそうよ。愛よ。つまり…愛を信じてるから男を探すんでしょ?でも見つからない。私たちは働きながら、いろんなことに時間を使う。部屋を掃除して飾ったり…それから女らしくなるための努力。俗にいう“女らしさ”よ。料理を習ったり…シャルル・ボワイエみたいな男、私の人生にはいないわ。一度も出会ったことない。クラーク・ゲーブルもハンフリー・ボガートも…みたいな男どこにもいないわよ。彼らは実在しないの。それが真実よ。でも映画でだまされちゃう。どんなに賢い女でもコロッと信じてしまう。フローレンス私たちは賢い女でしょ?そうよ本当に。その辺の女に比べたら私たちは天才よ。バカみたいね」

なんという素晴らしいガールズトークの応酬であろう。このレベルのガールズトークをしてるガールズなんて日本に果して存在しているのであろうか…
男の性を完璧に捉えているし、今どき女子からシャルル・ボワイエは普通に出て来るわけがない!!いかに“いいね”をもらうかしか考えてないような薄っぺらい女子ばかりが目につく…ここさけ(心が叫びたがってるんだ。)、きみすい(君の膵臓をたべたい)とか下らないこと言ってないで良質な映画を見てガールズトークのレベルを一段でも二段でも高めて欲しいと心から願ってるんだ。

シーモア・カッセル演じるシーモア・モスコウィッツの見た目(ロン毛を結わき限界まで伸ばした口髭)に嫌悪感を抱き、なぜミニーが彼に惹かれるのか分からないという人もいるかと思う。かくいう自分もわーわーうるさいだけのこの男に苛つくところが何度もあった…
大衆には迎合しない自らの信念というか筋を曲げない強さ、世の中のしがらみやら社会性やら世間体など一切恐れず感情の思うままに行動し生きている自然体というか野性児というのか…本能のまま感情的に動くことが子供っぽいと言えばものすごく子供っぽいが、こんな人間がまさにいま不在になっている時代だからこそ、理解できなくなっているのだと感じる。

カサヴェデスはインタビューで語る。
「クレジットカード、セックスの悩み、煩わしい仕事上の義務といったものに時間を取られすぎて、人間として必要なことの大切さを認識できないんだ。中略ー子供たちは誰の導きも受けられず、理想も持てないので死にかけてるんだ。中略ー人々は互いを信頼しなさすぎる。うわべだけのことが多すぎる。ぼくらは非人間化しすぎてしまい、大切なものや意味のあるものが何もなくなってしまってるんだ…
中略ー今日では争点のはっきりした社会問題なんてものはない。問題は…すべて人間の問題なんだ。今日では世界中の人間が、人生の問題は金で解決できるとか、知性で解決できるなんていう病んだ考え方をしてるね。人間として接することがなくなって、ライフスタイルだけが共通の認識になってる。ライフスタイルが似てれば親しくなるし、似てなければ何も見いだせないってわけだ。今や誰もが周りと同じように行動するしかない。非人間化ってやつだね。自分たちと違う人間を引っ張り出して射殺するみたいなもんだ。実際にそれが行われたこともあったけど…。人々は自分たちのライフスタイルや政治や友人の奴隷になってしまい、自分自身にはもう何も残されてないんだ…(まるで個人が)目に見えない存在になって、誰も本当の自分を目で見たり手で触れたりできないようなもんだ。(人々は)他人の頭でものを考えてる」

まさにカサヴェデスが何十年も前から言っていることから逃れられていないし、むしろ状況は益々悪化している。

本作の中ではミニーと不倫関係にある妻子ある男・ジムを演じているジョン・カサヴェデスからミニーは不倫解消の話をされ、意気消沈で帰路につくミニー…の家の前で待ち伏せするシーモア。普通にただのストーカーだし、どうしてミニーの家の場所知ってる?さらに、ミニーが吸ってる煙草がカットの繋ぎで消えていたり、逆にカットの繋ぎで急に煙草の火がついていたり、とノイズはかなり目立つもミニーとモスコウィッツの二人の画力と演技力に圧倒されてノイズもさして気にならなくなるから凄い。

ストーカーのモスコウィッツと消沈のミニーはそのまま飲みに行くも、真っ赤な照明で照らされた店内という全くセンスのない飲み屋に連れて行くシーモアはビールを、ミニーは煙草に火をつけながらベルモットカシスをオーダー。おぉ煙草ふかしながらベルモットカシスはカッコよすぎる!!
それに対してまたとんちんかんなことを言うウェイトレス。
「それって、どんな料理?」
おいおいおい…それくらい知っときなさいよ!!この返しもなかなか台詞として思いつかないはず…恐らくこれも実体験だと推測される。
ミニー「ベルモットカシスはカクテルよ」と優しく答える。
ウェイトレス「悪いけど知らないわ」
シーモア「(ミニーへ)教えろ」
ミニー「ベルモットにカシスを垂らすの」
シーモア「よし、それだ」
おまえも知らねぇんかい!!
ウェイトレス「詳しく説明して。氷は入れるの?」
シーモア「バーテンに言えば作れるさ」
ウェイトレス「氷は?」
シーモア「バーテンに聞けやつはプロだ」

結局、店を出る二人。

モスコウィッツのワゴンで移動する二人の後ろ姿を、後ろの荷台から窓越し
に撮るショットに『美しき青きドナウ』が重なるこのシーンが本作のハイライト。なにか心にドーンと訴えてくるものがすごいし、そして美しさも兼ねている。

季節外れの夜にプールで泳いで、その後にプロポーズって常人には理解できないし、理解できない自分がもうすでに非人間化の成れの果てか…

プロポーズの後に二人の母親と四者会談が行われる。
ミニー・ムーアの母親役ジョージア・ムーアを演じたレディ・ローランズはジーナの実の母親だし、シーモア・モスコウィッツの母親役を演じた超うるせーババアは、カサヴェデスの実の母キャサリン・カサヴェデスである。まさにジーナ・ローランズにとっては、その四者会談の席は現実通りのシチュエーションである。ミニーが小さい頃にお手伝いとしてトイレを掃除したというエピソードは恐らく実際の話であろう。とにかくジーナの母もカサヴェデスの母も芝居が上手です。自分の母がと想像しただけでも身震いする。普通に素人にはできないよ。どちらの母も女優やってたのかしら?

そのあと、最少人数での結婚式のシーンで牧師役を演じたのはジーナ・ローランズの実の弟デイヴィッド・ローランズ。この結婚式で牧師がトチるエピソードもカサヴェデスとジーナの二人の結婚式で実際にあったことらしい。弟デイヴィッドもいい芝居してます。

ラストは身内のパーティーシーン。
これを打ち上げと呼ばずして何と呼ぶ。

本作は所謂身内で作り上げたカサヴェデスとジーナファミリーによるアットホームであり、大企業やチェーン店には絶対に出せない個人経営だからこそ出せる味と温もりのする映画だと感じる。大作ばかり見飽きてきた方々には、こういう小さい作品をフラッと味わうのも乙だと思うのでオススメです。

余談だが本作には、若き日のマーティン・スコセッシが音響効果として参加しているので、スコセッシ好きの方は歴史の一頁を辿るのもまた乙かと…
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