第76回カンヌ国際映画祭(2023)にて女性映画監督として史上3人目となるパルムドール受賞となったJustine Triet脚本・監督作。
共同脚本に私生活でもパートナーのArthur Harari。
自殺なのか他殺なのか事故死なのか…その落下についての巧妙なトリックを暴く名探偵コナンなどは登場せず、予想だにしない種明かしにカタルシスを得るような類の映画ではない。
謎解きゲームの要領で、ああでもないこうでもないと想像力を存分に働かせ、後刻、自分の推理と答え合わせをしてスッキリするような経験を得ようと期待してしまうと、恐らく苦痛な時間になる。
落下を解剖するどころか、つまるところ夫婦とは何なのか、家族とは何なのかを解こうとする「落下の解剖学」ならぬ「夫婦の解剖学」である。
夫婦とは、かくも不可思議な関係であるし、その2人から生まれる命とは、親子関係とは一体なんなのか…それは数学上の未解決問題のように未だに誰も解けていないのではないかと思う。
その証明に挑もうとしたのが本作なのではないか…あの夫婦喧嘩のシーンは、立場によっていかようにも捉えられそうで、解を複雑にしている。
「40歳のくせに書けないのを私の所為にしないで!」
「被害妄想!」
「時間がない時間がない!」
「公平にしてくれ」
こんなような台詞の応酬があったと思うが…
自分もこの夫と同じようなことを言ってる気がしてハッとしてしまった!いつもいつも、できない理由ばかりを述べている気がする…「時間がない」は本当にヘビーローテーションで使っている自分を客観的に見せられたようで、自分に嫌悪感を抱く。
「40歳のくせに書けないのを私の所為にしないで!」
と妻に言われたら、ぐうの音も出ない。
できない自分と、できている妻に対して、そのギャップを埋めるにはデカい声を出すしか発散の方法はないのかもしれない。
やりたい事があるなら1人でいるしかないのではないか?と極論的だがそう思ってしまう。
やはり、夫婦間でのこのギャップは精神衛生上よくない気がする。
そもそも結婚相手もいない、パートナーもいない私からしたら、その問題用紙すら配られていない気はするのだが…
Sandra Hüller演じるサンドラ
「裁判に負けたら負けだけど、裁判に勝ったらもっと何か見返りがあると思ってた…でも、ただ終わっただけ…」
真実は当事者しか分からず、その現場にいた者以外誰もわからない。それは警察だろうが、検察だろうが、裁判官だろうが本当の意味での真実はわからないのである。
検証データや証拠を積み重ねて、白か黒か決める…この法廷というのも、随分と危ういものだなというのを改めて見てる側に突きつけている気がする。
本作の長い長い法廷劇を見ながら、松本人志の裁判を想像してしまった。
「裁判に負けたら負けだけど、裁判に勝ったらもっと何か見返りがあると思ってた…でも、ただ終わっただけ…」
松本人志も裁判を終えたら同様な感想を持つのではないか?
世の中の人たちは、司法は揺るがない絶対的なものと見ている節があるが、もはや三権分立を唯一神のように崇め奉る時代ではなくなってきたと感じる。何か全く第四、第五の新しい何か仕組みが必要であると感ずる。
冒頭から延々と流れる胸糞悪い50Cent然り、飼い犬の名前がスヌープなのもヒップホップ好きなのが伝わる。法廷でベテラン弁護士風のオバ様が「インストバージョンね!」と間髪入れずにツッコんでいたのが笑えた。
人物の顔の寄りの切り返しが多くて、画面構成が貧相であったのが残念。
そして誰もが言及するスヌープのシーンだが…アレを演技で本当にできるのか?自在に白目にできる訓練ってどうやって教えるのよ?ゲロ吐くのも訓練できるの?手練れのホストやホステスじゃないんたから…令和の時代は水商売の人たちも吐いたりしないか…