ninjiro

明日、君がいないのninjiroのレビュー・感想・評価

明日、君がいない(2006年製作の映画)
4.0
明日、君がいない。

知っていた訳ではない。
いつも突然にその時はやってくるのだ。
誰のせいだと責めるも虚しく、こうしていればと悩むも虚しい。

人と人との触れ合い、それはごく稀に、尊いものを紡ぐ。
しかし、大概においてその触れ合いは何時しか馴れ合い、烏合の群れと相成り、その結果価値あるものを何も産み出さない。
それどころかその多くは嫉妬・軋轢・非難・中傷の種を産み出し、果ては個人の尊厳の否定にまで発展する。
それらは独りで演じる健気な笑顔では、埋めても埋めても到底追いつかない程、鋭く深く広く繰り返し繰り返し、誰かの心の傷穴を爪立て拡げていく。
その誰かとは、1人の誰かではない。
全ての人がその誰か。誰もが誰かの、加害者であり、被害者である。

特に「学校」という容れ物の中では、そこを既に後にした人間からすれば最早眼を背けたくなるような陰惨で後ろ暗い現実と、多数の意識が発する耳を劈くような不快なノイズが何時でも溢れている。
知らない奴、知っている奴程度の大きな区分けの中で、そこから雑に分化するのは限定されたコミュニティの中でのみ罷り通る、未熟な人間の目利きが創る「良い」と「悪い」のルール。
その日々果てしなく続くかのようなどっぷりとした触れ合い・馴れ合いの中で研ぎ澄まされた牙を如何なる他者にも無遠慮に剥く、肥大した過剰な自己愛という意識が「学校」という器一杯にひしめき合っている。
被害者は加害者に、加害者は被害者に、誰もがその意識の中で目まぐるしくも都合よく立場を変えて、コンクリートで固められた器の中だけで行われる他者との触れ合い・馴れ合いの中の地図に自己を落とし込もうと必死に立ち回る。
そこに身を置く限り、自らをそのルールに合わせて裁断するステージは、何時でも否応無く襲い掛かってくる。

「学校」が全てではない。
しかしそこを後にし場所を変えたとて、何時でも何処でも同じ事は行われている。
気付かない振りをするのが上手くなり、いつしか麻痺した心のお陰で、その激烈な痛みをそのままに感じなくなったというだけで、ふと見廻せば最早寄る辺無き空虚な心が息つき休む島は何処にも無い。

誰も手を差し伸べはしない。
誰も君にはなれないのだから。

そして今日、君はいない。
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