YasujiOshiba

イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

-
日本版DVD。最初に見たのはいつだったかな。印象に残ったのは記憶、あるいは女たちとの会話。ああ、もしかするとアンドレオッティという政治家にも、そういう純なところがあるのかもしれないなという感覚が残った。

今回じっくり見直した。ゾッとするような名作だと思った。実在の、しかも当時存命中の政治家アンドレオッティを、ここまで戯画化しながら、その見えない内面と表沙汰になっていない関係にカメラを持って踏み込み、フィクションではありながら美しい映画のリアルで、ぞっとさせておいて突き放すことができるなんて。

ソッレンティーノは、実際にアンドレオッティを訪ねたことがあるという。この政治家の自宅で見たことをそのまま映画に盛り込んでいる。カーテンを閉ざされた部屋。顔面への針治療。そして目の当たりにした歩き方、話し方...

出来上がった映画も見せているという。アンドレオッティ曰く。「映像は美しい。けれど全くのでっち上げだ(Esteticamente bello, ma è una mascalzonata)」。この言葉を聞いて、ソッレンティーノは喜んだらしい。アンドレオッティの映画好きはよく知られている。その彼が、無視することなくあえて「でっちあげ」と論評したことは、自分の映画にそれだけの力があったからだというわけだ。

そのソッレンティーノがどうしても撮りたかったシーンが、政界の大帝(il divo) にしてスター(il divo)でもあるアンドレオッティと、マフィアの大ボスであり、かずかずのテロや犯罪を背後で支持したとされるマフィアの大ボス、サルヴァトーレ・リイナとの、抱擁のシーン。誰もがそうだったのだろうと思いながら、法廷ではついに証拠があがらなかったふたりの関係。そのふたりに抱擁を交わさせるシーンは圧巻。
https://www.youtube.com/watch?v=BV-_1MOQZn8&t=13s

しかし、それだけなら政界のドンとマフィアのボスのありふれた癒着にすぎない。ソッレンティーノがすごいのは、アンドレオッティをして、マフィアとの関係にやましいところはないと言い訳をさせるところ。そのシーンがこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=dtyQqKAL4SA

ポイントとなるのは、愛する妻リヴィアとの、墓場での最初のデートのことを思い出し、その純粋な瞳に惚れてしまったことを思い出しながら、そんな妻にも、政治家としての自分のことは理解できないだろう、そう告白するところ。そして、そのリヴィアはアンドレオッティが抱えている責任が見えないのだという。

「…おまえの瞳にはわたしの責任がわからない。責任というのは、1969年から1984年までのイタリアでのすべてのテロによる虐殺事件で、死者236名、負傷者817名にのぼるものにする、直接的あるいは間接的な責任のことだ。犠牲者のすべての遺族の方々にわたしは言おう。そうだ、告白しよう。わたしにも罪があった。私の罪だった。私の大いなる罪だった。ただこれだけは、むだかもしれないが、言わせてほしい。戦略的なテロ行為は、イタリアを不安定化し、恐怖をあおり、過激な政治勢力を孤立化させ、キリスト教民主党のような中道政党を強化するためのものであって、「緊張の戦略」と定義されたものだが、正確に言うならば「生存の戦略」であったはずなのだ。ロベルト(カルヴィ)、ミケーレ(シンドーナ)、ジョルジョ(アンブロソーリ)、カルロ・アルベルト(ダッラ・キエーザ)、ジョヴァンニ(ファルコーネ)、ミーノ(ペコレッリ)、そして親愛なるアルド(モーロ)たちは、生まれながらにして、あるいは必要があって、頑固なまでに真実を愛する人々だった。爆発したかもしれない全ての爆弾は、最終的な沈黙によって不発におわったのだ。誰もが真実は正しいことだと思っていたが、そうではない、それは世界の終わりであり、我々は世界の終わりをなにか正しいことの名のもとに到来させるわけにはゆかない。我々には公務がある。神の公務だ。神をほんとうに愛さなければ、善を得るために悪が必要だということはわからないだろう。そのことを神はご存知であり、わたしもまた知っている」
(...gli occhi tuoi pieni e puliti e incantati non sanno la responsabilità. A tutti i familiari delle vittime io dico: sì, confesso. Confesso: è stata anche per mia colpa, per mia colpa, per mia grandissima colpa. Questo dico anche se non serve. Lo stragismo per destabilizzare il Paese, provocare terrore, per isolare le parti politiche estreme e rafforzare i partiti di Centro come la Democrazia Cristiana l’hanno definita “Strategia della Tensione” – sarebbe più corretto dire “Strategia della Sopravvivenza”. Roberto, Michele, Giorgio, Carlo Alberto, Giovanni, Mino, il caro Aldo, per vocazione o per necessità ma tutti irriducibili amanti della verità. Tutte bombe pronte ad esplodere che sono state disinnescate col silenzio finale. Tutti a pensare che la verità sia una cosa giusta, e invece è la fine del mondo, e noi non possiamo consentire la fine del mondo in nome di una cosa giusta. Abbiamo un mandato, noi. Un mandato divino. Bisogna amare così tanto Dio per capire quanto sia necessario il male per avere il bene. Questo Dio lo sa, e lo so anch’io.)

悪魔とは、善を実現しようとするその意志にむけて誘惑してくるものなのかもしれない。そんなドストエフスキー的な深さが、この作品にはある。すくなくともぼくはそう見た。
YasujiOshiba

YasujiOshiba