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めしのIMAOのレビュー・感想・評価

めし(1951年製作の映画)
4.5
『めし』を久しぶりに観直す。成瀬巳喜男、1951年の作品。なぜこれを観直したくなったかというとこの所『はちどり』『82年生まれ、キム・ジヨン』など女の生き様についての優れた映画が、立て続けてに公開されたからだ。対して、日本映画で最近そういう映画があったか?と思うと現状思い当たらない。僕が観逃しているだけかもしれないけど…でも日本には成瀬巳喜男という、女を描いたらその右に出るものはいないくらいの名手がいたではないか?
原節子演じる主人公は、大阪で上原謙演ずる夫と2人暮らしをしている。結婚数年が経ち、いわゆる倦怠期に陥っているが、主婦である原節子はなす術もなく毎日を過ごしている。そこに姪の聡子(島崎雪子)が東京から家出してやってくるが…というのが話の導入。
久しぶりに観直してみて思ったのは、やはり時代はかなり変わったという事だ。当たり前の事だが、今は女性も普通に働いているし専業主婦の方が少ないくらいだ。だが、重要なのはそこではないと思う。成瀬が描いたのはどの作品でもそうだが女が生きることの「哀しさ」だ。それは1人でも夫婦であっても同じことで、そこには必ず「哀しさ」が付きまとう。例えばこの『めし』の原節子は上原謙の稼ぎで暮らして行ける専業主婦で、周りの友人たちからはうらやましがられている。だが、彼女の生きる場所は小さな長屋にしかない。彼女の自己実現は、家庭では解消出来なかった時代なのだ。かといって、彼女がこの映画で望むように、仕事で自己実現が果たせたかどうかは怪しい。(例えば小津の『東京物語』では原節子は職業婦人として働いているが、彼女は夫を戦争で亡くしたために仕方なく働いているのであり、その立場も弱いことが描かれている。)
そんな時に姪の聡子がやってきた事で、彼女の存在価値に疑いを持ち始め、小さな抵抗として彼女は実家に帰って行く。そして実家に帰るとひたすら眠る。そんな様子を見て母親の杉村春子は「女はね、眠いんだよ」と優しく呟く。ここの辺りは「82年生まれ、キム・ジヨン』でも描かれていた描写とそっくりである。そう言う意味では女性の立場は何も変わっていないのかもしれない。
そして、成瀬はそうした哀しさを女優たちの才能を最大限に引出して表現する。この映画の原節子には華やかな瞬間はほとんどない。その代わり1つ1つの表情、仕草でその時の気持ち、感情を見事に表現する。そしてそれは成瀬巳喜男ならではの「透明なカット割」でこそ際立つ表情なのだ。成瀬の映画の特徴として「見えないカット割」がある。映画を撮る時にカットを割る、割らないは監督の美学に関する問題だと思うが、成瀬はとても良くカットを割る。だが、そのカット割はいわゆるロシア・フォリマリズム的な「衝突」ではなく、流れる様な「繋がりが見えない透明なカット割」なのだ。(この事に関しては、かつて成瀬の助監督を勤めていた黒澤明も言及している)だが、その「見えない=透明なカット割」の中で見せる(特に)女優達の表情は時に恐ろしく、時に物悲しい。それはこの『めし』の原節子にしても、『浮雲』の高峰秀子にしてもそうだ。
今、女性達はこの当時の女性たちと比べて幸せになったのだろうか?一部では確かにそうだろう。だが、キャリアも家庭も両立しなくてはならない、というプレッシャーや、その一方でキャリアもなければ家庭もない、という事に後ろめたさを感じている女性達もいる。(そして同じようなことを感じている男性たちも多い)そうした女性達を成瀬ならどう描いただろうか?成瀬の映画から学ぶべき事は多いと思う。
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