めしの作品情報・感想・評価

「めし」に投稿された感想・評価

0y0

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4.5
溝口健二に金玉が付いてないと評された成瀬だけどこれからガンガン再評価されそう。濱口竜介が猫、役者の歩かせ方含め寝ても覚めてもで引用しまくっていた。近年の異常なダグラス・サークブーム考えると成瀬もそうなる日が近い...かな?
sk

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3.8
ラストシーン、原節子による諦観のモノローグは、今なら炎上でしょう。
良すぎた。光の当たり方が好き。上原謙のすべてがハマってる。どんなに映画を学んでもあのラストカットで映画を終わらせられる気がしない。
百合

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3.9
「永遠の処女」原節子が、結婚生活に疲れた市井の主婦を演じる姿に驚く。原節子、大根役者と叩かれたこともあるらしいけど、『白痴』も一緒に見ると到底そうは思わない。むしろ真逆。
また、上原謙といえば愛染かつらというステレオタイプで見ていた自分には、よくいるダメ亭主を演じる彼の姿が新鮮に映った。ただの二枚目俳優じゃなかった。

里子がとても自分勝手なお嬢さんでイラっとさせられたので、義兄がピシッと言ってくれてスカッとした。あのラストは全面的に納得できないのだが、それだけ当時の女性は選べる選択肢が狭かったということでもあるのかな…。

あ、妹役の杉葉子さんがとても綺麗だったのと、杉村春子さんはいつ見ても素晴らしい実力をお持ちです。
見どころはそこだけじゃありませんが、興味があれば是非…!
Kazu

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4.0
原節子と上原謙の夫婦の満ち足りてるようで何か物足りない感じがうまく伝わってきて、作品の投げかける問題意識がスッと入ってくる。大阪観光をしている気分を味わえるシーンもあり、楽しみながら夫婦の行く末を追うことができた。
少女特有の無邪気さと可愛さ
どこかサガンの悲しみよこんにちはの主人公を想起させる。

原節子の乱れた髪と米を研ぐ手。

視線でカット割る、それは画面によろめきを生む。
makita

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3.8
旦那の姪が終始イライラする。旦那もちょっと無神経でイライラする。「めし」と言う題名だけど特にめしの話では無い。平凡なストーリーと言えばそうかもしれないけど、何でかすごく面白かった。
生きるために、お互いがお互いを必要としているのが分かる。
どちらかが欠けた瞬間に、荒れた部屋内や脱ぎ捨ての着物といった、互いの生活が荒れていく様子。

終始、自己中女にイライラしたが、後半の嵐のシーンで、言いたいことを全てぶつけてくれたシーンは気持ちよかった。
彼女のだらしない部分を、彼女に対して、全て台詞でぶつけられることから、意図的に、あのキャラクターが用いられていることが読み取れる。
ただ、個人的に自己中女のキャラクターに共感する部分を見出せないため、意図的に作り込まれていることは分かるが、作品展開として、前半は世界観にあまり入り込めなかった。
ナオ

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3.2
この時代の邦画って初めてかも。

the!倦怠期!
最後の手紙を破るシーンが何かよかった、でもあんな旦那は私はいやだなあ。
成瀬は『浮雲』は確か2回観ていて他は『お国と五平』『稲妻』を観たことがあるだけで全部大分前だから漠然とした印象くらいしか残っていないのでほとんど白紙のような状態で今回これを観た(ので一本だけでわかったようなことを書く以下の文章の末尾には必然的にある一語が添えられることになるでしょう)。
成瀬は、松竹の偉い人に「小津は二人いらない」と言われたエピソードが有名だそうで、さっき調べていたら蓮實と青山しんじが対談で「全然似ていない」とそのことに文句を言っていた文章があったが、実際のところ似ていないということはないと思う、結構似ている、少なくともこの『めし』を観る限りにおいては(「小津は二人いらない」と言われたのは『めし』を撮るもっとずっと前のことだと思われるが)。
成瀬の撮り方、切り方、繋ぎ方は、基本は小津のやり方に影響を受けていて、それでいて小津よりは正統派(小津ほど無茶してない、もし映画の表現方法にたったひとつ正解があるなら成瀬の方がそこに近い)、という感じがする。
成瀬の映画は、空間を切り取ることによって生まれる画面外と画面内との関係性、そしてその連鎖によって表現ということをやる。
そうやって映像を推し進めていく。
そのときにカットを切り替えるタイミングというのはいつも観客と作者の画面外(次のカット)への興味に起因する(場合によっては興味を逆手に取った)見せ方であってこれは端的にサスペンスの原理だ。
そしてそのときに成瀬の映画では「今、画面に映って話している人物の相手側ではどんな顔をしているだろうか」「今、画面外の相手を見るこの人はどのような心理だろうか」というような問いが発生し、常に「今」を問題にした映像構築をやっている。
これが小津の場合では、カットを切り替えるタイミングは視点(カメラ=作者=観客)の側から能動的に動くのではなく、人物の動きによって作られる。
人物の部屋への出入り、画面への出入り、立ち上がり、座り込み、物を持ち上げる、といった動作が、台詞のキャッチボールすらが、あたかもカットを切り替えるタイミングを作るために行われ、その動くこと自体のリズムでもって映像を推し進める(リズムは「今」があるということ以外に「時間」が存在するという意識/感覚を醸成する)。
そして小津の場合「今」よりも「過去」「未来」といった抽象概念的な問題を発生させることに注力し例えば「人生」とか「無常」というテーマが浮かび上がる。
「今」を描く成瀬の場合に浮かび上がるテーマは例えば「生きていくということ」などになり、文芸映画に向いていてメロドラマ的だということが言える。
両者の違いは単純に資質の違いだと考えてよい。
と、これだけ違うというのは全然違うではないかと自分で書いていて思うが、これ以外はそんなに違わないのだから似ているのである。
原理的には別ルートでも、時空間の切り取り方そのものはとても似ているのだ(映画にとっていちばん重要なところが似ているのだ。カット割りが小津より細かいとかそんなものは大したことではない)。

知らんけど。
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