Kachi

レナードの朝のKachiのレビュー・感想・評価

レナードの朝(1990年製作の映画)
4.2
「人生の煌めき」とは何か?を問う作品

重篤な障がいを持った人々の尊厳を考える作品。当然ながら、1990年の作品であり、題材にしたのは1969年の実話であるため、当時の倫理観に照らして、セイヤー医師が行ったことの意味を考えなければならない。

おそらく新薬の投与時期に関して、当初はそこまで厳密なルールはなかったものだと思われる。人体実験だと言われれば、その通りかもしれないが、一応の同意は取っており、そこに目くじらを立てると本作が描こうとしているもの自体から目を逸らしてしまいかねない。

1. 患者の観察
セイヤー医師は、当施設であまりに日常的となってしまった重度な症状の患者を日和見的に経過観察していた。ところが、セイヤー医師はなまじ診察経験に乏しいがゆえに、患者の外界の刺激に対する反応を具に観察して、仮説を立て、どうやったら救うことが出来るかを試行錯誤していたのである。

Unclassified Diseaseは、誰かが発見しない限りはunclassifiedのままである。セイヤー医師が元々、動植物の観察や分類をしていたからこその発想であり、事実にどこまで忠実かはさておき、彼の積み重ねが活きてきているのである。

2. 人間の尊厳
奇跡の目覚め(awakening)の魔法が解け始め、頭で自覚しながらも徐々に副作用が生じるレナードの言葉は一言一句重たい。

・新聞記事はなんと暗いニュースばかりであるかと。生きていること、それ自体が喜びではないか、という根源的な問い掛け
・副作用の先陣を切るレナードが、周囲の他の患者に見せる気遣い
・父親がパーキンソン病に酷似する病気を患っている女性への心遣い
・自分の副作用からくる奇行を全て記録に残すことを訴える姿勢…

彼らは1969年夏の一瞬の煌めきしかなかったけれども、もはや煌めきの長さの長短に果たして何か意味があるのか?人間の尊厳と表現することで最もらしく何かを語っているように感じるが、その実はシンプルに「何か誇れるものを持って生きているか」というだけなのかもしれない。胸に手を当てて、そう思えているか?を自問自答する態度が、本作を観た人に期待されるものだろう。

3. 仮説が崩れた時
セイヤー医師の「パーキンソン病用の薬剤投与によって患者の症状が寛解する」という仮説は、崩れてしまった。たしかに、20名の患者を救えなかったという点においては失敗ではあるが、losing game(負け戦)の様相を途中から呈したこともあり、患者たちも何かを大きく失ったと言えるのかどうかは際どい。

そもそも20-30年の人生の空白を埋めるのは、ファンタジーでもない限り心理的負担も多く、社会的な存在である人間は素直に「生きていること」だけに感謝することが難しいのかもしれない。

結局、セイヤー博士がとった行動は研究を続けることだった。エミリア看護師との人間関係も彼の一つの進展ではあるが、私の目線からはそちらは映画的な落とし所であり、重要なのは「止めないこと」に尽きるのだということだとも思う。現在の医療でどこまでの治療が施せるのかは定かではないが、仮説立案→検証は一度で終わりではない。

コメディ要素を徹底的に抑制したロビン・ウィリアムズの演技も相俟って、思い出深い作品となった。
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