dm10forever

刑事物語のdm10foreverのレビュー・感想・評価

刑事物語(1982年製作の映画)
3.6
【「昭和」とかいてカオスと読む】

もうすぐ平成最後の年が終わりますね。
思えば30年という長いような短いような「不思議」で「濃密」な時間でしたね。

~昭和は遠くなりにけり~

はぁ、もう平成通り越して昭和生まれなんて「オジサン」なんだよね・・・。というか下手したら平成生まれだって三十路そこそこの年齢なんだね・・・。すげ。

自分としても過ごした時間は平成のほうが長いんだけど、郷愁や親しみを感じるのは「昭和」なんだよね。今みたいに一家に一台な感覚のコンピューターも無ければ、携帯電話もスマホもない、自分の目の前にいる人が友達で、芸能人はあくまでもTVや雑誌の中だけに住んでいる「別世界の人」だった。でも不便なんてこれっぽっちも感じたことは無くて、毎日を「リアル」の中で暮らしていたような、生きているという実感があったのは実は昭和のほうが強いかもしれない。
平成になって文明的な進化は目覚しいものがあるけど、どこか空洞化しているというか、本質を置き去りにしているというか、人と人との距離感がどうにもおかしくなってしまった気がする。リアルじゃないものを「リアル」だと信じ、逆に目の前にあるリアルからは目を背けて自分の得意な世界だけに引きこもる。なんだかおかしな世の中になってしまったな・・と感じる辺り、俺も歳なんだろうね(笑)。

で、この映画。
やっぱり昭和のど真ん中の作品という事もあって「元気」です。
「暴力団」はちゃんと暴力団しているし、「ソープランド」は「トルコ風呂」だし。
語弊があるかもしれないけど、暴力団であれ暴走族であれこの時代の彼らはギラギラしていた。決して正しくはないかもしれないけど、筋が通っていて「絵になる」部分ではあった。
そんな時代を切り取ったような作品からは昭和の臭いがプンプンしてくる。
僕の大好きな「幸せの黄色いハンカチ」や「異人たちとの夏」の中には『町』『人』『家族』みたいなものが色褪せずに残っていて郷愁と新鮮を同時に感じるんだけど、この作品にも通じるところがある。
 で、何が一番しっくり来るかというと「武田鉄也」=「昭和」なんですね、やっぱり。
「武田鉄也が似合う時代」なのか「時代が武田鉄也を必要とした」のかはわかりません。
だけど昭和の、それも後期の本当に「カオス」な時期、武田鉄也という人間に妙なリアリティがあった。見た目がどうこうということではなくて、彼の存在や発せられる言葉に力があった。そしてそこにリアルを感じられる時代だった。

もし・・・今、武田鉄也が当時と同じように振舞ったとして、同じように受け入れられるか?と言えば答えはNOだろう。
もう時代はああいう「等身大のヒーロー」を必要としなくなったのかもしれない。
YouTubeやインスタなんかの中で世界中と繋がることが出来るコミュニティがあり、ある意味では昭和の人間よりもずっとワールドワイドな人間関係を作れているのかもしれない。
でも・・・そこでは「自分を作れる」。
簡単に言えば自分の背中を見せずに済むんだよね。ネット上での付き合いって。
ま、それはそれで付き合いとしては成立してるんであれば何も言わんけどね。

リアルに付き合った人間同士だって、カッコ悪いところは見せたくないし、見たくないってところもあるけど、それでも加工も編集もされていないリアルな人間を見ながら付き合っていく。だから時として見たくない「カッコ悪いところ」を見てしまったり、見せてしまったり・・・。でもそれでも傍にいてくれる相手に信頼感が生まれ、それを友情と呼んでみたりもした。

そんな生臭い感じがこの頃の武田鉄也にはあって「カッコ悪いのがカッコいい」っていう矛盾さえも有り得ると思えた。確かに彼はTVの中の存在だけど、この時代にはそんなリアルさが溢れていた。

いいじゃない、カッコ悪くたって。
目の前にいる相手にカッコ悪いとこ見せちゃって苦笑いしている人と、それを微笑みながら見ている人。素敵じゃない。
なんでも昭和、平成と分けるのは好きじゃないけど、自分が求めているものって意外と昭和にあったんだなって、最近よく感じる。

こんな事言っていると、何だか時代に取り残された恐竜みたいだ。
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